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兄が中学1年のとき、父の仕事の都合で札幌から樺太へ引越した。兄は僅か15才で親戚の許へ預けられた。兄は後年「淋しくて淋しくて、よっぽどグレてやろうかと思った。」と言った。
中学を卒業して一緒になったが、まもなく少し離れたところの三菱炭鉱の事務員になってまた家族から離れた。
終戦になってすぐの夏、私たちは道南の豊浦へ引き上げてきたが、18才以上の男は帰れなかった。まもなく父も帰り、ほかの成人男子も帰ってきたが、兄は3年後になるまで帰れなかった。
ロシア語の通訳をしていたので、重宝されて遅れたのだった。
家族の歓迎会のあと、薄暗い田舎の台所できょうだい4人を集めて「これからは兄さんがお前たちを守るからな・・」と力強く言った。そんな兄を尊敬の目で見上げていたものだった。
なにせ7才もちがう兄は、2つ違いのケンカばかりしていた次兄とは尊敬度が格段に違った。
今になっては、兄もかっこつけてたな・・・とおかしく思う。
ロシア語もロシアの歌も教えてくれた。これはその後宴会などでよく歌っていたようだ。
兄はその後で教師になった。
そのころ教師が不足していて、成績の悪い腕白上級生だった男たちが続々と教師になったのだ。
資格がなくても教師になれた。
デモシカ先生と言われた。先生にでもなるか・・先生にしかなれない・・という意味。
だが、後年クラス会になど出てみれば、腕白だった人ほど熱意のあるよい先生になっていた。
資格がなくても結構。子供好きを条件にすればいい。
成績優秀で大学を出たって、冷たい心では教育には不向きなのだ。
それ以来中学の教師一筋できた。子供たちが大きくなると校長の資格をとり、僻地で勤務。僻地手当てで子供2人を大学に上げた。
部活に試合に子供たちを車に乗せて世話をするためか、田舎の校長というものはそんなものか、土地の父母たちは色々なものを持ってくる。
収穫時になるとトーキビをどっさり持ってくる。あちらの家からもこちらからも・・・老母と夫婦だけでは食べきれない。だれかに上げようにもみんな農家。
捨てれば見られるし、お風呂の焚き口に入れて焼く。生のトーキビを焼くのが上手になったと兄嫁はわらった。
夏休みになると子供たちを引き連れてよく遊びに行った。蝉の幼虫などは佃煮にするくらい取った。
つづく
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