|
中学校が荒れていた時代、僻地の中学生は純朴で、まだ9人制バレーだった時代に6人制バレーを指導して、転勤する先々で管内優勝をさらっていた。6人制にしたのは生徒数が足りなかったからである。
ママさんバレーも指導した。子供は昨日練習したことの次の練習に入れるが、ママさんバレーはまた前回の練習にもどらなければならない・・・とボヤキながら、子供たちにも地域の人たちにもエコー先生といわれて人気があった。
後年、思いがけずいわゆる勲章というものをもらったが、こんな田舎にいてこそ、無事に教職を終えることができたのだと言っていた。
定年後は豊浦に戻り、町史の編纂、教育委員などの役職を次々とこなし、子供たちのバレー指導もし、お金にならないボランテアばかり・・と兄嫁を嘆かせていた。
兄嫁のおかげで父母も看取り、これから2人の気楽な生活をというときに、長年のバレー生活がたたったのか、腰の骨が変形して長く歩くことが困難になり、一日4時間の牽引など病院通いが多くなった。
そうして7年前、突如腎臓に異常をきたして透析の身となり、それではと札幌の国立病院のとなりの中古MCに越してきた。長く住んだ田舎の大きな家は兄嫁一人で引越しをすませたのだった。
つづく
|