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私は明治37年1月28日、旭川の永山村にI家の4女として生まれた。7人兄弟の中男3人女1人は赤ん坊の中に死んでしまって、女ばかりの末っ子として育った。
冒頭の書き出しである。私はこれを送られたときちゃんと全部読んだはずなのに、いつの間にか母は一人っ子だと思っていた。
一人っ子だから田舎から女学校などへ進学させてくれたのだと思い込んでいたのだ。
母の両親は屯田兵として北海道に渡ってきて辛酸の限りを尽くして生きてきた。そうか、だからこんなに子を亡くしたのか。そうして母親ほどにも年の離れた姉がいたのだ。年の近いもう一人の姉は15・6才で亡くしているのだった。まったくいい加減に聞いたり読んだりしているものだ。
それだもの、戦争の話を子孫へ語り継ぐなんてのも無意味と感じてしまうのです。
私が6才のとき父が母恋の小学校に転任になったので、父や祖父母と一緒に母恋ですむことになった、お友達が居なくて、校長先生の子で敏ちゃんという男の子とばかり遊んだ。
ある日、酢を買ってくるように言われて、敏ちゃんと二人で行った帰りに、敏ちゃんが一寸飲んでみて、「おいしいよ 飲んでごらん」と云うので飲んだら美味しかった。二人で替わる替わる飲んで残り少なくなった瓶を持ち帰り、祖母にさんざん叱られた。
その年におばばは亡くなった。私を可愛がってくれたおばば、お歯ぐろを付けた優しいおばばだったのに・・・
晩年、寝たきりになった母を見舞うとこの話をした。2・3度は聞いたと思う。懐かしくて書き写した。
その後2年生のとき麻疹が内攻して死線をさまよい、ようやく回復に向かう。母親は毎日病気の子を背負って、まだ明けきらぬ街を法華寺まで朝詣りしたことを覚えている。痩せていても、2年生にもなれば相当重かったであろうに、毎朝毎朝お詣りに行った母の大きな愛を忘れることは出来ない。
そんな重病の子を背負ってお詣りなんて、体に良くないと思うのですが。一縷の望みをかけたのでしょうか。今なら安静第一です。
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