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楽しかった2年間の附属生活を終え、あこがれの庁立高女に入学したのは大正8年。当時札幌には主な女学校が庁立・市立・私立の北海位なもので、後小さな裁縫女学校が幾つかあった。
当時の女学校の服装と云えば、着物に袴、白足袋、下駄履きであった。
真夏でも足袋をぬぐ事は許されなかった。そしていつも真っ白でなければならない。汚れたのや穴のあいたのを穿いているとお作法の時間に恥ずかしい思いをしなければならない。
何時か道が悪くて汚れた足袋のままお作法の時間になった。お作法室は広い和室で、ずらり居並んだ中央に2・3人づつ出て実演する。人々の視線が足元に集中する。
私は早く終業の鐘が鳴りますようにと神に祈った。段々出番が近付いて来る。
この次ぎだと観念の目を閉じた時、ガランガランと鐘が鳴ってホッとした。
庁立の海老茶の袴の裾には蛇腹の白線が3本、市立の袴には直線の白線が・・とかいって蛇腹の白線が誇らしかったと。
昭和天皇がまだ東宮殿下と言われた時代、札幌に行啓されることになり、中島の野外音楽堂では軍服姿も凛々しい22・3才の若きプリンスの目の前で、「森の小鳥」と「日出づる国」を合唱した。2つの歌が終わるまで直立不動の姿勢で立っておられ、私達は感激の歌声を張り上げた。
天皇のお顔を見たら目が潰れるといわれた時代でのこと、忘れ得ぬことだったのでしょう。
岩にもたれ~た 物凄い人が・・ディアボロディアボロ・・デアボロ~♫ などと当時流行った歌を戦後、小5年の私に聞かせてくれたりしました。 もうかなり古い人でなくてはこのデアボロを知っている人はいないでしょう。検索すると出てくるのですよ。
もっと色々聞いておけば良かったと今頃になって思うのです。
女学校へは母方の親戚の家から通ったようです。
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