以前に2匹の猫をかっていたことは、前日書いた。白猫は6ヶ月くらいになっていた。
大雨の日、インフルエンザで休校になって退屈していた次男が、黒い猫を拾ってきたのだった。
ダメ!!2匹は無理!とは言ったものの、この大雨ではと不承不承飼う事になった。
複数の猫を飼うことのよさを認識した。
一匹では見ることの出来ない面白い場面をみて大笑いすることが多かった。 取っ組み合いの躍動感が違う。
そんなこともあって、フウロを見たとき、ショウマの遊び相手にと思ったのだが、娘の思惑は違った。
おびえ、反抗するショウマがやっと馴れて、うまく生活しているところに仔猫が来ては、ショウマがいじけるのではないかと思ったという。
それにと続ける。「フウロの可愛くない顔!仔猫がこんな変な顔だなんて」 「ホント、頭と耳ばかりデカくてつりあがった目!あのブラシのシッポ!!」と何度大笑いしたことだろう。
フウロだけだったら、私は可哀相にと思いながら見捨てていたことだろう。
ショウマがいたからフウロを拾う気になったのだ。
私は動物好きだが、幸せな動物しか見ていたくない。
娘が沖縄で飼っていた雑種の犬を連れてきて、犬との暮らしを経験したとき、散歩と食事だけが喜びの犬をみて、自由に外を走らせてやりたいとつくづく思った。
だから犬が死んだとき、その条件を持たない我が家では、もうなにも飼わないつもりだった。
野良の仔や捨て猫を世話して活動している知り合いにも、そのことは言っていた。
写真は新潟の郊外にある、カーブドッチというレストランの庭園風景だが、オーナーが20匹ちかくの猫を世話している。
山麓までの広~い庭やブドウ畑、ネコは好き勝手なところで眠り、エサの時間になると集まってくる。
こういう飼いかたならしたい。夢の生活だ。
だがやはり目の前の事件には弱かった。どんな家庭に生まれてくるのかも運命だが、どんな家庭に拾われてくるのかも運命なのだ。
上の写真の木に、ザルを吊って4匹のねこが涼んで寝ています。さぞ気持ちの良いことでしょう。