日本文学の研究者、ドナルド・キーンという人の名を知っている人は多いと思う。
彼は物凄い秀才で、高校から飛び級で2年進級して、大学に入ったときは、まわりは若い大人ばかりで、孤独だったという。
そして難関の奨学試験に合格して、それからは一切親の援助なくして暮らしたという。
やはり、どうにも人並みでない秀才がこの世にいるのだ。
これほど飛び抜けていなくても、学力は勿論、運動、芸術それぞれに秀でた人材はいるだろう。
この世を生きていくには、一つだけ秀れたものがあればいいのに、平均点が高くなければ入学できなかったり、卒業できない仕組みになっている。
どの才能が芽吹くか、子供の段階では分からないから、いろいろな学習があるのだろうが、断トツですぐれた芽を出す子には、劣った教科への配分も考えてやりたい。
運動会で手をつないで、一緒にゴールして、一等を決めないというのはやりすぎだと思う。
算数が出来ない子は、走ることで自信をつけていくだろうし、学業が出来て、運動が苦手な子は、出来ないことの悲しみも経験することだろう。
違いを認めて、その違いを尊重したいものだ。
同時にドナルド・キーンのような子を、同じにと手をつながせて、足踏みさせてはいけないと思う。