人間は大昔から言葉を使っている。書いてもいる。
こんなに沢山の人が、沢山言葉を書いているのに、同じ言葉にならないのが不思議だ。
作曲についてもいえる。沢山の曲がある。似たようにはなるが同じ旋律にはならない。
言葉の組み合わせ、音の組み合わせ、無限に続いていくのだろう。
茨木のり子の詩は鮮烈だった。時代によっても言葉の組み立てが違ってくるから、その時代を誘導するように、切り口鋭く、その時代の人の胸を打った。
親もきょうだいも、俳句や短歌をやっていた。 私だけがやらない。 言葉をそぎ落とす作業ができない。
ポイントだけ言えばいいのに、全部の思いを話そうとする人がいる。只のおしゃべりになる。 私も、活字のおしゃべりが好き。
茨木のり子の詩を二つ。 感受性くらい~~は以前に載せたが、もう一度。
六月
どこかに美しい村はないか
一日の仕事の終わりには一杯の黒麦酒
鍬を立てかけ 籠を置き
男も女も大きなジョッキをかたむける
どこかに美しい街はないか
食べられる実をつけた街路樹が
どこまでも続き すみれいろした夕暮は
若者のやさしいさざめきで満ち満ちる
どこかに美しい人と人との力はないか
同じ時代をともに生きる
したしさとおかしさとそうして怒りが
鋭い力となって たちあらわれる
自分の感受性くらい自分で守れ ばかものよ。
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難かしくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ