いたずら男子がいつ三角巾のキャップを取りに来て、坊主頭がムキダシにならないかとおびえながら過ごしていたが、そうしたことはなかった。
今思い返してみても、オデキのことでは、自分では充分に傷つきながら、人にされて嫌だったという記憶はない。 有難いことだったと思う。
豊浦小学校に転校して間もなく、国語の時間、数人が指名されて教壇に立たされ、それぞれ漢字を黒板に書かされたことがある。
私のもっとも得意分野の漢字である。何の不安もなく教壇に立ったが、先生は私に長万部(オシャマンベ)と書けという。豊浦への乗り換え拠点の駅の名であった。私には馴染みのない駅。
ボーゼンとして立ちつくした屈辱感は今も忘れない。
今は駅名も変わってきているが、豊浦近辺にはアイヌ語が地名になっていて当て字の駅名が多かった。
豊浦は昔べんべ(1935年改称)隣の洞爺はあぶた(虻田)、うす(有珠)、おさる(長流)など、修学旅行生が笑って通り過ぎていた。
転校生は何かとからかいの対象にされた。
クラスに姓と名が一字ずつ私と同じ男の子がいた。それだけのことに私の名と混ぜて呼んでからかわれた。
たとえはと
山本英夫と岩本英子なら、山本英子!!と叫ぶのだった。
隣のクラスの男子まで、窓から首を出して叫んでいくのだ。黒板には相合傘の絵も描かれた。
当時はとても嫌だったが、今は懐かしい思い出。 彼も、もう亡き人だ。