私の年代は、小学校からも
国民学校と名が変わり、国語の教科書もサクラガサイタではなく、トテチテタ、ヘイタイサンガトオル・・・に変わりました。
そして女学校に行くつもりが
新制中学となったのです。
これは中1のクラス写真です。 小5で終戦でしたから、それから2年後ですね。
36人います。2クラスありました。
後ろの土手の白いものは雪です。 入学間もなくの写真と思います。
どこかの難民のような格好ばかりです。
この後中学の修学旅行の写真は大分服装がよくなっています。
校舎はなくて一時小学校の教室を間借りしていました。その上4・5ヶ月ほどは椅子も机もなく2部授業でした。
英語という授業がふえて新鮮でした。 英語のノートは横に4本の線が引かれていて、小文字のaは真ん中に、bはそこから上まで、fは下から上まで背高ノッポさんと覚えました。
今は英語の筆記体を教えないのだと知って、物凄く驚きました。
必要が無いのだそうです。 そういえばそうですね。
間もなく新制中学の新校舎が建ちました。
小学校は家のすぐ隣、中学校は100メートルほど上がったところでした。
そのころは生徒は自宅へ帰って昼食を食べていました。
お弁当を持たすのが大変だったからです。
オジヤやダンゴ汁はお弁当に不向きなのです。
家の遠い子だけ5・6人がお弁当を持ってきました。
私は家に飛んで帰り、お昼に熱いスイトンなどフーフーいって食べると、すぐ学校へ駆け登って戻りました。
冬など真っ赤に燃えたダルマストーブを囲んで、遅い子はまだお弁当を食べていました。
その輪にはいって、お喋りをするのが楽しかったのです。
授業中そのストーブに席を立って石炭を入れるのは、一番前の生徒の役目でした。
私は羨ましかったのですが、目がいいばかりに一度もその席には座れませんでした。
でもこのお昼休みにはやらせてもらいました。 大きなデレッキでしたね。(鉄製の火をかきまわす棒)
そのころから通知表は5段階評価になったと思います。
こんなことは覚えているのに、高校のときのお弁当はなんにも覚えていないのです。
自分で作った記憶もなく、母が作ってくれたのでしょうか。 不思議です。
いじめというのは特に記憶がないのですが、クラスに知恵遅れの女の子がいて、休み時間にはその子を囲んで、歌を唄ってごらんとはやしたてていました。
その子はちょっと恥らいながら
野崎まいり~は~~♪などと唄いました。
ず~っと後になって里帰りしたとき、その子は父親の分からない子を産んだと聞きました。