仔猫時代 今でもず~っと仲良し
by oss102
↓お友達リンク集
カテゴリ
以前の記事
検索
最新のコメント
タグ
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
カテゴリ:思い出( 234 )

運動会の思い出
  昨日の運動会練習風景で思い出した運動会。 
ネネ9才・長男6才・次男0才・私32才。
私は6月半ばに次男を生んで、退院したばかりでした。

5月の陽気とは反転して、寒いさむい6月の運動会でした。実家から父母が応援に来てくれました。
母62才・父72才・数えやすいでしょ^^ だから50年前になります。

団地に引っ越してから初めての運動会でした。当時、周囲には大きな建物もなく空っ風が遠慮なく吹きまくります。

父母が毛布など抱えて運動会に行ってくれ・・私はまだ床上げしてなくて布団を敷いたままでした。
昔は日があけるまでは、水仕事をしてはいけないと言われていました。産後20日くらいだったかしら? それでも掃除をしてない家は汚くて、父母が出掛けると、一生懸命拭き掃除をしたのを覚えています。 なぜか夫はいませんでした。出張だったのかも・・記憶なし^^

2時過ぎ、冷え切った体で父母が帰宅し、ストーブの火を大きくしました。

母は、長女の一人息子・次女の3人の子・我が家の3人の子、全部産湯から日があけるまで手伝ってくれたのです。 父はもれなく連いてきました。^^
全く男親は役に立たず、昼間から焼酎を飲むので嫌でした。 でもこの二人は切り離せません。

50年前、当然ながらみんな若かったです。
私は、末っ子の小学校の運動会を最後に、運動会見学を止めたようです。中学校の体育祭の記憶がありません。

それに・・孫もいないので、産後の手伝い経験もなし・・その分子供たちに、母のありがたみも味わせることなくきてしまいました。

今の娘さんなどは、お母さんがまだ若くて仕事も持っているでしょうから、産後の養生も短くなったかしら・・今は栄養もいきわたっていますから、短くていいんでしょうね。

運動会の思い出から話がそれました。^^


e0001808_1572126.png

[PR]

by oss102 | 2017-05-24 15:04 | 思い出 | Comments(6)
増築中のとき
 30年ローンで公団からの分譲住宅は、7800円なにがしを毎月払って大変でした。家を売って小樽に越してきたときに、ようやく払い終わりました。

それに2・3年して2階を増築したローンはこれも同じようで、公団のと合わせると1万5千円ほどでした。

その増築中、2階への階段ができた朝、夫は点検に行きました。夫はこういう工事現場を見るのがすきでした。登校前の子供たちも喜んで後に続きます。まだ、2・3才だった末っ子もネネに抱かれて上がって行きました。

下で朝食の準備をしていた私は、ドスン!バリバリ!!という音にびっくり。2階の断熱材や木材とともにネネと末っ子が4畳半の部屋に落ちてきたのです。

まだ、そこには布団が敷き詰められていて、幸い怪我はありませんでした。

2階へ行ってネネが末っ子を下して未造作の部屋を見せたとき、ヨチヨチと部屋に入り込んだので、慌てたネネが止めようとして、二人もろとも落ちてきたのです。

その時の思い出話を何回もするのですが、そのたびにお腹が痛くなるほど笑いが止まらないのです。
苦しくて・苦しくて・・もうその思い出と笑いはセットになっていて、止まらないのです。

大食い一家で、食べさせるのに必死。質より量でした。
なんとか無事に過ごせたのは、なにより、家族みんなが健康に恵まれていたことだと思います。

バブルとかなんとか世の中は騒いでいた頃。我が家には関係ないと思っていましたが、洗濯機・冷蔵庫・TVと車。そんなものが揃っていったのも、バブルのおかげだったのか・・と考えたりしてます。 よその家よりは遅かったのですが。


e0001808_17571894.png

[PR]

by oss102 | 2017-03-26 17:57 | 思い出 | Comments(12)
ひな祭り アーカイブ編

 10年前のひな祭りの記事です。今日はこの記事でサボリます。

みなさんも10年分若かったなぁ・・とコメント欄を読み返しながら、よくぞ続けて訪問してくださっていると感謝です。m(__)m


e0001808_1020859.png

[PR]

by oss102 | 2017-03-03 16:00 | 思い出 | Comments(13)
ローマの休日みちゃった。
 
今日はBSでローマの休日があった。以前にもあったが用事があってパス。
我が家はケチで、BS契約なし、録画できず、四角い邪魔なものがかかる。
それでも猫番組などめげずに見る。^^

スノーシューの後、PCクラブが1時からだが、パスしてローマの休日にはりついた。
私の青春時代の映画・・グレゴリ・ペックに胸を焦がした。ウエスト58c・ピンヒールの私。
ところどころのシーンはその後のTVなどで散見していたが、覚えていないシーンも多い、
青春は、はるか彼方・・・

いつもは朝のコーヒー1杯だけだが、マグカップ抱えて、ソファがないので座布団小棚にたてかけて・・最後の王女の記者会見のシーンでは、涙ぐんだりした。

気がつけば、四角の邪魔なものは全然出ていなかった。 サービスなのね。

雅子さまも愛子様も・・その昔の美智子さまも・・こんな自由時間がどんなに欲しかったか。
民間でバリバリ活躍されていたでしょうね。 生まれた運命、選ばれた運命。

それなりの私の運命にも、満足な午後じゃった。


e0001808_15545846.jpg

[PR]

by oss102 | 2017-02-14 15:55 | 思い出 | Comments(11)
左手の親指のキズ
 もう10年も通い続けているmikihanaさんのブログに、目籠の写真が載った。 
大きな目籠である。いまどき珍しい。

そうして父親のことを思い出した。
父は農家の3男坊で小学校4年卒である。当時は4年で卒業を認められた。

一人娘の母の婿に入った。職業軍人だった父は、敗戦とともに無職になった。
引き揚げてきて、竹籠を編んで売った。 農家の息子なので、なんでも手作りしたが、プロにはかなわない、武骨なものばかりだった。 物のない時代、それでも売れていたようだ。

板敷の8畳間いっぱいに、竹を引き込んで木株の台で小刀で割っていた。裏の白いところをこそげて薄くする。 それを編むのだった。お湯にひたして柔らかくしていた。

小5年の私は、だれもいない留守に真似をして、竹をするすると割っていった。
細く同じ幅にそぐのは難しかった。よく切れる小刀は、あっというまに抑えている左手の親指にくいこんだ。 血がドッと流れる。

急いで茶チリといっていたチリ紙で抑える。なにより怖いのは父の叱責。

ギュッとおさえ続けて血を止めた。そのへんにポタポタ落ちている血を拭いて、何食わぬ顔。

あれから71年が経つ。でも親指の先端についたキズ痕は今でもハッキリ凹んでいて分かる。よくばい菌に負けなかったものだ。

父さんは、どんなふうに私を叱っただろうか?

わかりますか? キズ痕が・・
 
e0001808_15141981.jpg

[PR]

by oss102 | 2017-02-13 15:15 | 思い出 | Comments(14)
渋皮煮
e0001808_1551686.jpg 渋皮煮・・といえば栗のことだろうか? ほかにもあるのかなと思って、調べてみたけど、やっぱり栗だけみたい。

大きな渋皮煮をネネがもらってきた。我が母娘は甘いのが苦手・・といえども好むのもある。
カステラ系とこしあん・饅頭の類が苦手で、これは美味しかった。

でも超甘かった。ネネは1ヶで降参。 私は日をおいて1ヶずつ全部食べた。人生初物である。

栗といえば父を思い出す。実家には大きな丹波栗があり、風の強い日にはパラパラと音をたてて落ちた。 ソレッと袋を持って外に飛び出す。 ツヤツヤの大きな栗が草むらに光っていた。

戦後の食糧難のことである。近所のワルガキが忍び込んくる。「コラーッ・・人の畑に入るな~」 と叫んでいた父は、51才。 軍隊仕込みの自慢の大声である。(10年ほど前、家族の思い出の中に書きましたが、もう時効ですので、今1度)

晩秋、薪ストーブの上での焼き栗でした。さるかに合戦のように、ハジケないようにナイフで角をカットしました。 頭にシラミのたかったオカッパ頭の・・でも夢一杯の少女でした。

渋皮煮なんて、大人になってから聞いた料理方です。


e0001808_15501272.png
 
[PR]

by oss102 | 2016-10-11 15:54 | 思い出 | Comments(8)
カーテン
e0001808_1441054.jpg  夜中に目が覚める。真っ暗だとまだ2時くらい・・・カーテンが白っぽくなると4時ころかな?
私の部屋のカーテンはレースのカーテンと木綿1枚。陽が上ったのがわかる。

でも居間のカーテンは遮光カーテン。真っ暗で何時ころか壁時計の針さえ読めない。

こんなカーテンにしなければよかった。夜勤するわけでもないのに。

年寄りには、外の気配がわかるほうがいい。4時ころになると下方のバス会社のバスがうごきだすのが分かる。 そんなかすかな音もいい。

今の学校にカーテンってないよね。 施設だと2重窓の内側は見えないガラスが入っている。
プロジェクターなど見せるために、ボタンを押すと、自動的に閉まる重々しいカーテンがある部屋もあるが。小学校もそうかな?

昔の学校は、白い木綿のカーテンだった。日に焼けてベージュや薄茶になっているところもあったな。

中秋の名月の翌朝の白い月。5時半ごろでした。

e0001808_14535391.jpg

[PR]

by oss102 | 2016-09-19 14:54 | 思い出 | Comments(10)
冬の思い出  6

 スキーに狂って20年が経ち、そのおまけが20年続いた。その間に子供たちは成人して親元を離れ、夫は他界した。
夏はテニス、これはあまり上手くならなかったが、そこそこの腕前の仲間としっかり遊び、スポーツ三昧人生。 おかげで、まだ歩けるのだと思っている。

いや、スポーツしない人だって沢山ふつうに歩いているよね。

11月23日からゴールデンウイークまで・・・ひたすら滑った。6月にも沢すべりなど楽しんだ。
娘と同じ年の仲間と外国スキー旅行も3度行った。

今は余韻だけで滑っている。もう30年以上前の、スキーウエアと用具。買い替える気持ちはない。
でも誘いがかかれば、「いくか・・」という気になる。一人では行く気にならない。

なんだかんだと言いながら、私は仲間という関係が好き。
友人でもない、もっと薄い関係。 それでいて一人では淋しいのだ。

 雪国に生まれた私の冬の思い出。いぜんにも同じことを書いたこともありますが、違う構成で書きましたので、お許しください。 
結局冬の思い出はスキーの思い出になってしまいました。

                     おわり


e0001808_14283165.png

よ~く見てください。ネコが・・・すべってるんですよ。^^
[PR]

by oss102 | 2016-02-24 14:28 | 思い出 | Comments(8)
冬の思い出  5
 
40代に入ってテニスに誘われました。団地の裏が大きい沢状になっていて、テニスコートが2面ありました。 3人の子供たちもようやく手がかからず、やりくり生活ながら若干の余裕も出来たのです。
そのころ道新こどもスキー教室とか、スポンサーのついたスキー教室のチラシが団地にも入るようになり、テニス仲間の家族と一緒に子供をつれて参加しました。

私はまだ、長男の使ったゴムのスキー靴とスキーでした。お下がりではなくお上がりですね。
そのうち熱中しだした仲間の家族が、手稲のスキー場の会員になり・・・

その時私も誘われたのですが・・・「毎日スキー場に行くなんて、まともな主婦のすることではない。」と断ったのです。 この言葉が、いつまでもスキー仲間のひやかしにあうことに。

私がいちばん狂いだしたのです。言葉と言うものは恐ろしいものです。必ず自分にかえってくるものですね。新雪・深雪に狂ってひとシーズン100日も通ったことがあります。

30度の急斜面を・・春先のザラメを・・よく雪崩に会わなかったものとゾットします。
今、息子がオフ・ゲレンデに夢中です。心配ですが、あんまりうるさく言えません。

そんなスキー生活で50才近くなると、いつまでもハードなスキーは出来ないし、教えることで続けられたら・・と指導員の資格を取りました。

シーズン初めの指導員研修会や、本州から来た人たちのスキー授業も楽しいものでした。若いインストラクターに混じってのオバさん先生です。

滑っているときは、みんな帽子やゴーグルでカラフルなウエア。夜の食後のミーテングは、顔が丸出しになります。 私の組はどこ?・・・ハゲや白髪やで自分の生徒が分かりません。
生徒の方も、ガッカリします。 ちょっと精神的におかしい青年がいて、私を見て、どうしても「この班ではない。」と頑張られたことがありました。"(-""-)"

どうしてもノーコントロールで、スピードが出てしまう生徒さんに、いつも云う言葉があります。
「20キロで走る車でも、ブレーキが利かない車は怖いでしょ。」
「スキーもブレーキが大事です。」 出てしまうスピードではなく、出すスピードのために、ブレーキの練習をしましょう。 その後は、みなさん安定した滑りになって感謝されました。

こぶの急斜面に格好良く滑って見せるインストラクターも必要ですが、地味なオバサン先生も、中高年のスキーヤーには喜ばれました。 気づけば50代も後半になっていました。


e0001808_157955.jpg

[PR]

by oss102 | 2016-02-23 14:58 | 思い出 | Comments(8)
冬の思い出  4
 高校を出て、姉の家に居候をしていたころ、サブちゃんと呼んでいた若者が出入りしていて、どこかのスキー場に連れて行ってもらったことがある。スキーウエアもなく、事務服のウエストにそれらしくゴムをいれて絞り、姉の古いスキーを借りた。 姉は結婚して豊かな暮らしをしていて、合板のスキーを持っていた。

曲げることを知らない私は、土手のようになった坂を、直滑降せんもんだった。止まるときは転ぶ。
なれてきたところでスピードが出すぎて、転ぶ余裕がなく、坂の先の石垣に衝突した。
かなり痛かったが、姉の手前我慢した。

翌日医者に行ったが、「問題はないが、年を取ったら影響が出るかもしれない・・」 その言葉は忘れずにいる。 よかったなぁ・・まだ歩けるもの。

ちょっと気があったサブちゃんは、今頃どんなオジイサンになっているかな。生きているかな。

 子供の学校では、スキー授業とスケート授業があって、両方の用具を用意しなければならなかった。親の負担は大きく、上の子と年齢差があった下の息子はお下がりもなく、季節の終わりころのバーゲン品を買った。 ところが、翌年には大きすぎて、翌々年には小さすぎて、とうとう丁度よいスキー用具をそろえてやれなかった。 ゴメンネ。

後年、冬休みのスキー教室にかり出されるようになって、子供たちを教えた。
どんなに用具が大事なものか、よくわかった。
リフトに乗っている途中に、片足のスキー靴を落とす子供がよくいた。私のような親の子だ。
用具で、上達が大きく違ってくる。

でもその頃は高度成長期の豊かな暮らしになっていて、子供たちの服装も用具も立派なものが増えていました。


e0001808_1521873.png

[PR]

by oss102 | 2016-02-22 15:19 | 思い出 | Comments(6)