仔猫時代 今でもず~っと仲良し
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祖父と祖母のこと・・・吾等の一生より 屯田兵に
 明治10年頃から金沢では金箔業が盛んになり、父親はその仕事をしていました。

誠一郎にも「お前は学問が嫌いだから、学校を止めて箔打ちを身につけてはどうか」とすすめ、喜んで退学する。

このことを誠一郎は、生涯悔いることになる。父親に厳しくにらまれるのが嫌だっただけで、学問は嫌いでなかった。

父はその後、広い土地に家を建て、鶏を沢山飼ったり、公債より利子がよいと、銀行の株を買ったりしますが、銀行がつぶれて大損したり、鶏は貂に食い殺され、嫌になって二束三文で売り払ったりと損ばかりしています。

湯屋は士族の営業として、もっとも気楽な良い仕事で、他の商人にだまされることがない。などと聞き、叔父が手放した湯屋を引き受けますが、みな同じ思いの士族が、俄かに沢山湯屋を開き、競争して湯銭を下げたものですから、少しも利益がないことになりました。

明治18年屯田兵募集を知り、先ず誠一郎が志願する。
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金石港から汽船に乗り、小樽に上陸、そこでくじを引いて江別へ。番号によって兵屋に入るが4千坪に1戸ずつ前の兵屋に行くのにも40間余ありました。

古兵の炊事で生煮えの飯ばかり食べ、やたら水ばかり飲んで私は脚気病になりました。札幌の病院に4ヶ月ほど入院。

私は身体が弱いばかりでなく、随分怠け者でありました。なるべく骨を折らずに人並みの仕事をしたいというようなずるい事ばかり考えていました。
私が骨を惜しんで怠けただけ、私自身の損になったのです。


ここを読んで私は思わず笑ってしまいました。お手伝いが嫌いだった少女時代から、今に至るまで遊ぶことには励むが労働が嫌い。おじいちゃん、あんたに似ました。 

屯田兵の記録もこうして全部残っていました。時間をかけて検索してようやく見つけたときは歓声をあげてしまいました。皆さんには興味もないものなのにゴメンナサイ

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by oss102 | 2006-08-31 20:18 | 日々のこと | Comments(9)
祖父と祖母のこと・・・吾等の一生より 父親と誠一郎
感謝と懺悔
 
誠一郎の手記には上の表題がついています。慶応2年12月金沢に生まれる。
5歳になったとき、父が差初(サシゾメ)の大小を買って袴着のお祝いに、私に着せて親類を招いて大層な祝事をなさいました。

その翌年、明治4年2月14日、廃藩置県の令が出る。

母と祖母が「お前が15歳になると元服し、御殿に上げて御扶持が頂かれるのを楽しみにしておったのに、ご奉公することも出来ぬようになったが、なんとか仕事を見つけて働かねばならぬ」と申しました。

小学校に上がる。 元々勉強が嫌いでもなかったのだが、父親が今で言う教育パパで、目の前に座らされ、字を忘れるとその度ごとに睨まれるので、「父の前に出ると恐ろしくて、声を出して読むことが出来ぬようになりました。」

泣いていると祖母が来て、お菓子などを下さるので、祖母を仏様のように思ふて、父を鬼のように思いました。

ここの所も後に、祖母は只可哀そうがって甘やかすのではなく、父親の子を思っての愛情なのだと諭してくれれば・・・・・と教育者としての見解を述べています。

絵を描くことが好きで、ひまさえあればチリ紙にでも絵を描いていたが、父はそれを嫌がって「今は学問の世の中じゃ」と叱られる。 それでも隠れて絵を描いて友達などにやったりしていた。

或るとき祖父が来て父に向かって「それほど絵が好きなら、絵を習わせてはどうです」と言われましたが、父は「絵は道楽者のすることです。昔と違って今は学問でなければ役に立ちません」といふて承知しません。

後に父は自分のために、厳しくしたのだと反省しますが、後々まで父親と目が合うと自然に目を伏せ、大人になっても愛情の通い合わない父子でした。
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by oss102 | 2006-08-30 19:42 | 日々のこと | Comments(12)
祖父と祖母のこと・・・吾等の一生より コマツの晩年
 髪結い仲間で悪口をいう人が沢山ありましたが、それもそのはずです。

室蘭では女髪結いは何十軒もありましたが、その人たちは大概先生について2・3年苦しんだ人たちですのに、私のは人の髪を結わせてもらいながら覚えたものが、女髪結取締りなんて大役を仰せつかったものですから、そねむのも無理ありません。

私も一時とても困ったけれども、だんだん馴れてきて勤めることが出来ました。


 大正4年、夫は小花井校へ転任になり、コマツはきんと文子(ナヲの子ーナヲは文子を生んで離婚している)を連れて、初めて夫と落ち着いた生活を始める。

私がいうにいわれぬ苦労をして、今まで辛抱してきたのは唯々我が子が可愛いばかりでした。
何をしても子供を善良に育てて、人中に出ても恥をかかぬように育てたいと思う一心で、辛苦にも病気にも打ち勝ってきたのであります。


生活が落ち着いてきんを札幌師範付属から庁立札幌女学校に出している。
家も建て、それまでにお世話になった人の名前と住所をつらね感謝している。

私が常々しあわせだと心から嬉しく感じておりますことは、両親も夫も私の失敗にたいして、只の一度も小言をいわれたことが無いのです。
そして別に悪い顔もせずに接してくださったことでした。 
長い間辛抱しましたおかげで、今はよい養子を貰い、可愛い孫の顔をみて、私たち二人は安心して暮らしています。


以上で、コマツの手記は終わっています。

生活のためとはいえ中々の頑張りで、孫の私からみても頭のいいやり手であったと思います。
現代ならとっくに離婚していて、キャリアウーマンかいっぱしの女実業家になっていたかも知れません。

ですが、幼い頃に親たちの言葉の切れ端から、私たち子供のイメージは、コマツおばぁちゃんは夫に仕えぬ、女の道から外れた悪い女でした。

誠一郎の方はおだやかな人ですし、母は誠一郎の母に育てられましたから、その気風を色濃く受け継ぎました。

誰かが利かないことをすると「コマツばぁちゃんの血を受け継いだのだ」といういわれ方をされました。 なんとなく悪い事はコマツおばば、良い事は誠一郎おじじからから受け継いだという具合でした。

 明日からは誠一郎の手記に入ります。どうぞお付き合いくださいませ。
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by oss102 | 2006-08-29 17:32 | 日々のこと | Comments(18)
祖父と祖母のこと・・・吾等の一生より 旅館経営でまた借金
 父の病気はたいして手がかからず、只家に遊んで居るのもつまらんと思って世話をナヲにまかせて、大手の建設事務所のようなところで働きます。

札幌からも以前の商売仲間が、もう一度腕をふるう気はないかと誘いが来ます。
仕事先の人から旅館をすすめられて、その気になります。

田舎町に立派な旅館が出来上がりました。

開業はしたが中々客がなく、下宿人を置くことにするが、給料の安い職工たちも20人もいて、一日に8合から9合も食べる。石炭も必要で大損になる。

とうとう人に譲って160円の借金が残ります。

思案の末に女髪結いになりました。今までは娘の髪や近しい人の髪をただ結ふて上げて、上手だとか何とかいふて、褒めてくださいましたが、自分の職業として賃銭をいただくことになりますと、今までのような訳に参りません。

お恥ずかしいことですが、初めの間は3等で結いましたが、段々手が上がりまして2等になり、1等になりまして、1ヶ月35円~45円までも取るようになりました。


一人ではとても手が回らなくなり、下付きを2人も頼んだが、それでも足りないくらいのお得意があった。

先生について習ったわけでもないので、上手ではなかったのであります。けれども私は人様のことをかれこれしゃべらないのと、親切をつくしたのが売れたのです。
そうして働いている間に160円の借金を残らず払いました。


大正元年の暮、兄が保証してくれていた300円が440円50銭となって、執達吏が2人突然差し押さえに来て、家具も衣類も残らず押さえて行く。 4日のうちに100円をこしらえて、電報為替で札幌に送り、やうやう差し押さえをといてもらうが

その残金340円余は、毎月10円ずつ返済するということに兄が決めてくれたもの故、どんなことがあっても10円送らねばならず、私は命がけで働いて働いて、その返済もいたしました。

母恋の人たちは、そんなことを知りませんものですから、私の働くのを見て、髪結い仲間で色々悪口をいう人が沢山いました。

                                      つづく

兄の保証の300円については済んだようなことが前に書かれていましたが、そのくだり、字もほとんど消えていて、様子が分らず不審な部分もあるが、起こった事柄を書いていきました。
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by oss102 | 2006-08-28 21:10 | 日々のこと | Comments(8)
祖父と祖母のこと・・・吾等の一生より 人の保証で
 日露戦争も終わり夫は憲兵を止めて小学校の教員に。 同居の期間もあったが、琴似の学校に転任になって、コマツと長女ナヲは店に残り、両親と下の子2人と共に、教員住宅に移り別居となる。

「私は生まれて初めて人になったような気がしているのに、人様から偉い偉いとおだてられるので、私は本当に偉くなったような気になり、所謂そのときの私の心の自惚れであったのです。

それがよくよく私の失敗の元になりました。
札幌でも指折りといわれる親方衆が、私を信用してくださるようになり、「貴女の保証なれば何千円でも貸します」と言われるようになりましたものですから、親しく交際している方から、保証を頼まれますと、今まで自分が難儀したときのことを思いまして、まことにお気の毒に思い、私の出来る限りの面倒を見なければならぬ、と思うものですから、色々な方々や人々の保証をしました。

そして大は500円から、300円、250円、そのほか小さいのは数知れぬほど判を押して上げたものですから、しまいには自分の店の仕入れにも差し支えるようになってしまいました。」


このままでは差し押さえが来るかも知れぬという事態になり、債権者を集めて店を投げ出すことになる。

色々算段の挙句、コマツは兄の保証の300円と他に毎月無尽のお金30円ずつを払っていくことになる。

今度は2条通りに月17円で2階屋を借り、小松館という看板をあげて高級下宿を始める。
月々30円と兄への支払いも少しずつ返すことが出来るようになり、ナヲも郵便局で働くようになり、「先ず、これで安心していました。」

ところがその頃、母恋の小学校に転勤していた夫から、母が病気との知らせ、4日後には死亡、葬儀をすませたが、父の面倒をみなければなりません。

父を札幌へと誘っても、母恋の土になりたいという。
その後父は病気になり、世話をしなければならず、好調の下宿屋をたたむことに・・・・

下宿屋と諸道具を売って、兄の借金の残りや利子など、後を整理して母恋へ行きます。

母恋に来ても、コマツはジットしていません。
                                     つづく
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by oss102 | 2006-08-27 15:42 | 日々のこと | Comments(10)
祖父と祖母のこと・・・吾等の一生より 商売にふみ切る
 その翌年、夫は憲兵隊詰めになって札幌陸軍官舎に入り、旭川を引き揚げてみな札幌へ出ることになる。 官舎は立派だったが月給は15円。

コマツは皮やへ女工として出る。朝官舎を出るときはお化粧して羽織がけで出て、工場へ行くとさしこの着物をきて働く。

或る日のこと両親が「お前もなれない仕事に毎日出て行くのは辛かろうが、わしらはお前が出て行くのを見るのは涙がこぼれるように思うが、どうだ、お前は商売でもする気はないか」と申されました。 しかもしきりに勧めるものだから、私もその気になり、父も夫と相談して江別の土地を売ることになりました。

1万坪を450円で売り、札幌中を見て回り、南4条西6丁目の角を家賃13円で借り、コマツとナヲと二人で荒物店を開く。両親は下の子2人を育てて夫と官舎で暮らす。

その頃の450円では、まずかなりの荒物店が出来ました。「屋号を○一商店として、一生懸命お客を大切にし、品物を吟味して勉強しましたので、だんだん人気が出て、店員2人にしナヲは裁縫に通わせるようになりました」

「とても手がまわらぬようにはやりました。」 その頃の1400円の売り上げがあれば、とても大したもので、卸屋さんたちは「○一のおかみさんは男勝りでたいしたものだ」なんて大評判になり、品物はどんどん来るし繁盛する。

まことに面白く働いていました。  
           つづく
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by oss102 | 2006-08-26 15:47 | 日々のこと | Comments(12)
祖父と祖母のこと・・吾等の一生より 泣くのが楽しみ
長くなりますが、今日は原文のままで

またまた苦しい生活が始まりました。しかしお国のため家のためと一生懸命に働きました。
それで体に無理をしたのと心配をしたので、また病気になりました。
旭川の病院の診察では、脳神経衰弱といふことでありました。

働きすぎたことでもありましょう。何にせよ一人で何から何まで働くのですし、夫はいつ帰るというあてはなし、それに弱い体で心配のし通し、このときばかりは情けなく心細くなりました。

そして只、人のいない所へ行っては泣いてばかりおりました。そうしているうちに私は、気がふらふらして夜でも雪の中を裸足で歩いたり、何でも人のいない所に行って泣きたいのが、何よりの楽しみのように思うようになりました。

両親の心配は大変でしたそうです。

或る日、私を父が呼ばれたので参りますと、父が静かに申されますには、「お前は女として男に勝る働き者と、わしら二人はお前を力に誠一郎が留守でも、何にも心配せずにいるものを、この頃のお前の青褪めた顔を見ると、わしは心細くてならんのだ。
お前が今床に付くような事があったら、どうしよう。
お前があれほど可愛がって育てた3人の子供も、私等二人も皆死んでしまわねばならんのだ。

子供や私等がふびんと思って何とか気をしずめておくれ。それでお前も辛かろうが苦しかろうがお国のため、家のためじゃ。

お前も武士の娘に生まれて来たからにゃ、何卒わしの言う事聞き分けてくれと68歳になられる父上が、私に手を合わせて頼まれました。

そのときに私は夢から醒めたように気がつきまして、鳴呼、私が悪かった。私の心に私が負けてはならぬと思い直して父上に「私はこれからどんなことがありましても打ち勝って行きますから御心配くださいますな」と申しますと父上は「何卒心を大きく持ってくれ」と涙を流して喜んでくださいました。

それから一日一日と心も落ち着いて身体もだんだんよくなり面白く働く事が出来るようになりました。

                                  つづく
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by oss102 | 2006-08-25 21:14 | 日々のこと | Comments(6)
祖父と祖母のこと・・吾等の一生より 深い親子の縁  
 私もようよう今までの事情がわかりました。
世の中にはなんと親子の縁ほど深いものはないとはこのことでした。

以前は常に私を実の子よりも可愛がってくださった両親たちが、こんな時になると、我が子のいうがままになり、私を憎まれましたが、その後はまた、もとのように私を愛してくださるようになりました。


そんなことで誠一郎は江別にいるのも面白くなくなり、いろいろな仕事のあげく、旭川の代用教員になる。 12円の俸給で家賃が1ヶ月4円50銭。差し引き7円50銭。

コマツは23歳のときに子供が生まれ、夫の両親と旭川に来るが、これでは親子6人が食べていけない。 近所の女工監督として働くようになる。
両親は賛成するも、やはり誠一郎は気にいらぬ。

コマツは朝2時から起きて御飯の始末をして3時には出かけ、晩は8時でなくては帰れない。
一日4回ずつ子供に乳を飲ませに帰るが、泣き出すと母(姑)が辛そうで気の毒であった。

旭川の寒いところで無理な仕事をして、あばずれの古い女工の監督で、心労も重なり、ロクマク肺炎にかかり、危篤の知らせを出したほどだった。

40日ほど床について全快しますが、また無理をしてはと両親に相談の末、素人下宿をすることになり、ここで思いの外、暮らしが楽になってくる。

いつも代用教員で苦しむより、師範学校に入って一人前の先生にと、夫を師範学校に入学させる。 そのときコマツ25歳。

夫の留守中は昼は客の始末をし、夜は軍隊の服の穴かがりなどして、ほとんど眠らぬことが幾夜もありました。
翌年3月末に誠一郎は首尾よく卒業して帰り、その翌年きん(私の母)が生まれる。

やれ嬉しやとおもふたのは、ほんの束の間でありました。
その年の7月、日露戦争がはじまり、夫も招集になりました。


又々苦しい生活が始まりました。        つづく
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by oss102 | 2006-08-24 15:38 | 日々のこと | Comments(10)
祖父と祖母のこと・・・吾等の一生より エセ坊主にだまされる
 坊主さんが来ると、誠一郎は大喜びしました。
人を集めて神様や仏様のように病気を治すといふて毎日近所にふれて歩かせておりました。

「宅地の北の隅を掘ると宝物が出るから掘れ」とか「温泉が出るから掘れ」とかいふて「その支度を早くせよ」などと家中てんてこ舞いの大騒ぎでありました。

それから庭を掘ったり、床下を掘ったり、宅地に穴を掘ったりしましたが、どこからも何も出ませんでした。近村の人々にも評判になり、見学にきた人も沢山ありました。

ところが何にも出ないものですから、坊主さんも気が気でなくなったとみえて、或る日、一寸用足しに行ってくると出たきり、影も形も見せなくなりました。

そんな騒ぎは1ヶ月も続きましたから、両親も夫もそろそろ目が覚めたと見えて、初めて夫が私に「今まで私は永々夢をみていたのだ」とことの顛末を語りました。

「札幌の未決監にいた時一緒にいた八卦おきの坊主で、私の手相を見て、妻には別に男が出来て、すでに妊娠5ヶ月になっている」といわれたのでした。

「今更面目もない。坊主にだまされて、お前に辛くあたったのは、本当に皆私が悪かったから許してくれ」とあやまられて、私もやうやう今までの事情がわかったのでした。


後の誠一郎の手記によると、裁判にかかるまで未決監に一年ほどいたとき、その坊主は被告人に「お前は無罪だ」というとみんな無罪で出て行くのだそうです。

誠一郎には「あなたには罪はないけれども、相手の人間が悪い事をしているので罪になるかもしれん」というのです。

そこで妻のことも観てもらった所、情夫が出来て、妊娠5ヶ月うんぬんといわれたのです。
そういうところでは、心も弱くなっていたのでしょう。
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by oss102 | 2006-08-23 20:22 | 日々のこと | Comments(14)
祖父と祖母のこと・・・吾等の一生より コマツの悲しみ
 血を吐く思いで作った50円のお金で無罪を勝ち取り、夫は無事妻子の許へ帰ってきました。

だが様子が変です。親戚の者達がお帰りと歓迎する中、夫はコマツの方へは目も向けようとしません。

ある早朝、誠一郎はコマツと寝ていたナヲを無理矢理連れ去ります。

夢のように思い、実家の両親や兄に話しますと、どんなにコマツが夫のために苦労をしたかを知っていますから、大変な立腹です。
「そんな不実な人間とは知らんでいたが、もう帰さん」となります。
4日ほどして、誠一郎の知人が来て「帰してもらいたい」といってきますが、父親は帰しません。 コマツは毎日泣いてばかりいます。

ある夜、コマツの母は、夫に内緒でコマツに「どんなに辛かろうが、子供のために帰っておくれ」と早朝、手をとって山道を送ってきます。

帰えってみると誠一郎も両親も、相変わらず冷たい態度でしたが、ナヲは大喜びします。

毎日の辛さに、井戸に飛び込もうとしますが、ここで死んでは、父や兄の反対を押し切って送り返してくれた実母も生きていられない、と思いとどまります。

相変わらず誠一郎とその両親は辛く当たり、針のむしろの生活です。

或る日、一人の坊主が参ります。     つづく
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by oss102 | 2006-08-22 21:20 | 日々のこと | Comments(8)