仔猫時代 今でもず~っと仲良し
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<   2007年 05月 ( 31 )   > この月の画像一覧

兄嫁 その6 100パーセントの介護を目指す
 兄嫁はとにかく献身的な介護をする。 100%の介護をするので、周りの者が息をつけない。
長姉は亡くなっていて、次姉や次兄夫婦、私。
自分の計画通りに動いてほしいのに、自由にならない。 ストレスを溜める。
「もっと息、抜いてもいいよね」と姉と話したこともあった。

兄嫁は息子が盲学校の教師になって、弱視の教え子と結婚したいと言ったとき、猛反対した。
○○家の嫁に、そんな人を迎えるわけにいかない、と言い切っていた。

強い人だな、と思った。 私なら「アンタがいいと思うなら、好きにしなさい」と言うところだ。
数年経って小3の男の子を連れた同僚と結婚した。
時代の波で兄嫁も抗し難かったのだろう。
自分のイメージでの息子のお嫁さんでなかったことで、兄嫁はこの頃から人格が丸くなっていった。

強く正しく、誰にも後ろ指さされずと、姿勢正しく生きてきた人が、それもこれもありですね。・・・と柔軟になってきた。

近くへ越してきたら恩返しをしなければと思っていた私も、自分の楽しみに時間を奪われて、たまにか顔を出さない。
電話になると長い。 ついつい掛けそびれる。
兄嫁は近所に友達も作ったが、兄の介護があるので趣味の世界にも入っていけない。

それにしてもこんなに能力のある人が、どうして介護介護の人生なのか。
そして自分がそうなったとき、自分がそうしてきたように、親身に介護をしてくれる人はいるのだろうか。
親孝行な息子はいるけど、お嫁さんも仕事。 どうなるのか。

この兄嫁に支えられて、私の趣味のスポーツ生活はあったのです。

兄嫁の介護は現在進行形。
                                       おわり
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by oss102 | 2007-05-31 18:21 | 日々のこと | Comments(15)
兄嫁 その5  夫の介護
 母の亡くなる1年ほど前は、憑き物が落ちたように、兄嫁は母の悪口を言わなくなっていた。 いつもの優しい兄嫁になっていた。 気持ちが吹っ切れたのか。

父が亡くなって数年して、町役場に懇望されて実家の土地を大きく売った。
そのとき、きょうだいに60万ずつ分配すると知らせてきた。

親を看ていないのに、受け取るわけにいかないと断った。
「どうして? 子供達に上げても喜ぶでしょう」と言ってきたが、そんな不労所得のお金を子供達に渡すわけにはいかない。

母の葬儀が終わって、私は永年の兄夫婦の両親の世話を感謝して、手紙と共に、香典とは別に50万を渡した。

親の看取りをお金に替える気はない。 やっと肩の荷を下ろしたお二人と、ハワイ旅行とも思ったが、お互いにスケジュールのこともあるので、お金にした。
落ち着いたら二人で旅行してください。 
 というような内容だった。

兄嫁は「これはYちゃんの気持ちと共にいただいておく。一生かかってお返しするつもりです。」と喜んでくれた。

ようやく長い介護が終わった。

幸せな二人の晩年が続くかと思ったのに、間もなく兄の腰が悪くなって、歩行に支障をきたすようになった。
隣町まで一日8時間の牽引。 その後札幌で手術。 とても旅行どころではない。

兄は中学で当時道内の優勝校だった、札商のバレー部にいた。
勤務地の先々で、女生徒を管内優勝させていた。
ママさんバレーも指導していて、定年後も地元の子供たちのバレー指導をしていた。

あまり腰に負担をかけ過ぎていたのかもしれない。

そんな折、急に腎臓を悪くして深刻な事態になった。
老後は息子のいる札幌へとは言っていたが、予定を早めて国立病院のすぐ隣りのマンションへ越してきた。

一日置きの透析が始まった。 身障者1級。 軽い脳梗塞も2度。

また兄嫁の介護が続く。

                                          つづく
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by oss102 | 2007-05-30 18:41 | 日々のこと | Comments(10)
兄嫁 その4  母
 母は亡くなる数年間は白内障がすすみ、全盲になっていた。

病院へ母を見舞うと、嬉しそうにした。「あんた、幾つになったの?」と聞く。
認知症まではいかないが、高齢で物忘れがすすんでいる。 耳も遠くなっている。
6人部屋で聞かれるたびに、大きな声で「58歳!」と答えるはめになる。
付き添い人も何人もいる中で、行くたびに聞かれて閉口した。
筒状に紙を巻いて電話ゴッコのように、母の耳に近づけたが、母は嫌がった。

母は「早くおじいちゃんに迎えにきてほしい。寝巻きのひもで首を絞めようとしたけど、力がなくて出来なかった。」というようになった。
「おじいちゃん、向こうで彼女が出来て、もう少し待ってくれって言ってるよ。必ずそのうち行けるから、あせることないよ」


「どこも痛くないの、だから病院にいても仕様がない。家に帰りたい」という。
「でも母さん、自分のこと自分で出来ないでしょ。 御飯つくったり、お風呂に入ったり、みんなSちゃんのお世話にならなきゃいけないしね。 ここなら交代でお世話してもらえるからね」  私は淡々と受け止める。

病室を去るときは、いつも肩口で小さく手を振っていた。

老いるということは悲しい。 5人も子供を生んで、愛情一杯に育てたのに、
ゴメンね 母さん。
見舞いを終えて帰路につく車の中で、少し涙ぐむ私は、一方でまたひと月来なくていいのだと、解放感に浸ってもいるのだった。

そして兄嫁には、この解放感はないのだとも知っていた。

母は97才で亡くなった。
高齢なので眠るようにと願っていたが、現実はそうでなかった。
知らせを受けて病院へ行くと、母は管を一杯つけられて、手は拘束されていた。
声をかけると、母の目じりから涙がつ~っと流れ落ちた。

その夜から4晩病室に泊まりこんで、ようやく母は旅立った。
4晩泊り込みしながら私の思いは一つだった。
なんとか一刻も早く眠らせてあげたい。管も外してあげたい。
泣きながら私に殺せる方法はないのかと必死に考えた。 
「ゴメンネ、母さん、辛い晩年だったね。私にはなんにもできないよ~」
医者にも頼むが、管は外してもらえなかった。 不甲斐ない気持ちで一杯だった。

                                  つづく
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by oss102 | 2007-05-29 21:21 | 日々のこと | Comments(12)
兄嫁 その3 介護のストレス
 次兄夫婦と次姉は、JRの駅で5つほど先の伊達市に住んでいた。
度々母を見舞っていたが、円形脱毛症になった兄嫁をみて、心を痛めていた。

勿論優しさも充分にあるのだが、田舎の病院にくるヘルパー、看護婦などみんな知り合い。
教え子もいる。 その目に対して完璧にしなければとストレスを溜める。

その頃、次姉や私に、母の悪口を言うようになった。
「仏壇の鐘は1つ鳴らすのがいいと、お坊さんは言うのに、オバァチャンは2つ鳴らす」
「女学校を出たって、こんな姿になってしまって、なんにも出来ない。」
憑かれたように何度も同じようなことを話す。

私は逆らわずにウンウン聞くだけ。
私は往復5時間はかかる実家に、月に1度くらいしか顔を出さない。
私が憧れながら、高くて手がでない流行の服も、常日頃の感謝の手紙とともに、ことあるごとにプレゼントした。 とても喜んでもらえた。

嫁の立場の舅・姑の存在がどんなものか、沢山本を読んでいた。

隣の敷地に夫の両親の住む家がある。 その家を見るたびに、うっとうしい思いがよぎる。
こんなくだりも、もう読んで何十年も経つのに忘れない。

だからといって私が母を引き取れるか。ずるい私は引き取れなかった。
実家に顔を出すことを、兄嫁はいつも喜んでくれた。
だが母の顔を見に行くということは、こちらの胃袋も連れて行くわけで、兄嫁の負担を恐れた私は、沢山の土産物と、その日の夕食のおかずを沢山作って出かけた。
出かける前に疲れてしまった。

俵萌子の本に、親に会いに行くたびに、同居している弟のお嫁さんに気を遣うので、気持ちの負担があった。 母親が入院したとき、そこで母と2人でお喋りして、真っ直ぐ帰ることが出来て、気分的にはとても楽になった。・・・と書かれていて、本当にそうだと思った。

だがすぐ隣が病院なのに、実家に顔を出さないわけにいかない。
気を許せる私に兄嫁は、つもる話を吐き出したいのだ。
ウンウン、なんでも言って。 まるごと母を引き取れないのだから、月に1度や2度の聞き役はお安い御用よ。・・・と思って聞いていた。

                                        つづく
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by oss102 | 2007-05-28 20:32 | 日々のこと | Comments(20)
第3回 ネコの事務所九条の会
             兄嫁シリーズは明日から再開します。 m(__)mヽ

今日午後、九条を守る会シリーズの3回目に行ってきました。

北海道出身の童話作家 加藤多一さんのお話と朗読ということでした。

まず、加藤氏のホシコの朗読に当たって、朗読は一番下手な人にしてもらってくださいと、オーナーに注文があったそうです。
オーナーは貴方が一番下手だから朗読をお願いします、と言うわけにいかないと、頭を絞って全員に1ページずつ読んでもらうことにしました。

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ところどころにこういう絵が入っています。
そういうところは2拍くらいおいて読んでほしい、と注文がありました。
ホシコという美しい優れた馬が、コウという少年と出会い、馬は打つな、話せば分かるといわれて少年と馬の美しい交情が書かれています。 大人になってコウは出征、ホシコも中国に召集されます。
そしてコウも馬も戦場から帰りませんでした。

詩情あふれる文章から、静かな確かな反戦のメッセーシが受け取れます。
参加メンバーから感想など話され、アイスコーヒーとミントティ・お菓子の後、フルート演奏がありました。
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加藤氏は73歳、ひょうひょうとして話されます。
参加者25名、今回は珍しく男性も多く、日本人の意識・9条を守るについてのたたかい方などに話がはずんでいました。
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あとりゑ・クレールへの行き帰り、家いえの前に飾られた花鉢を眺めながら、このささやかな平和を少しでも長くと願うのでした。 右端が加藤氏です。
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by oss102 | 2007-05-27 20:33 | 日々のこと | Comments(10)
兄嫁 その2 介護の始まり
 父親は81才で亡くなった。
急に腰が立たなくなって入院し、それから105日で亡き人になった。

母は付きっ切りで看病していたが、兄嫁もオムツ交換、その洗濯などもバンバンやってくれていた。 今から30年以上も前のことである。 

私も夏休み子供を連れて1週間泊り込み、病院に詰めてしもの世話をした。
人がやっていることだから、私だって出来ると覚悟したら、チャンと出来た。
私の働きを認めてくれたのか、兄は子供達を焼き肉屋に連れて行ってくれた。
兄の子は男の子2人、上の子は食が細くて、一口食べる度に「おぉ、えらい、エライ」とジジババに褒められて育った子だ。

「あのときは美味しかった。私たち3人があんまり食べるから、オジサン、きっとビビッたよね」と娘は思い出して笑う。
その頃子供達は、焼き肉屋の味なんて知らなかったのだ。

父の病床はいつもきれいになっていた。
兄嫁の介護はこれが最初ではない。
兄嫁のすぐ上の姉が40代のころだったか、入院中に院内感染で亡くなっている。
そのときも汽車に乗って毎日通って看病していた。

父が亡くなってから、兄が校長になって僻地勤務が続いた。 母もついて行く。

夏休み、子連れで田舎に行くのは楽しかった。
セミの幼虫を佃煮にするくらい採って帰り、庭のレンギョウの木につかまらせて孵化の観察をした。
田舎ではもらい物が多い。家族の人数におかまいなく、トーキビがあちらからもこちらからもドッサリ届く。
兄嫁はこっそりお風呂の炬き口で生のトーキビを燃やす。
燃やし方が上手になったと笑っていた。

田舎では校長はエリートだ。校長夫人としてもだらしない格好で歩けないと、いつも身じまいはキチンとしていた。
活け花、お茶も免許皆伝。頭のいい人で、なんでも知っていて頼り甲斐があった。

父の法事で会うたびに、仏事のしきたりに頓着しない我が姉妹は、兄嫁が頼りだった。

田舎のことだったから、何処へ行っても知り合いがいて、立ち話は長かった。
電話も長い。 立ち話が始まると、私は子供を連れて近くを散策していた。

母はどこがどう悪かったのか熱が下がらず、兄の勤務地で入退院を繰り返していた。
活発に出歩く人でなかったから、淋しかったのかもしれない。
兄の子達も大学で親元を離れていた。

定年になってまた、豊浦の家に落ち着いた。大きな家に大人3人暮らし。
ここでも歩いて数分の病院へ、母は入退院を繰り返した。

母が自宅へ戻ると、兄嫁は円形脱毛症になった。
あのころ、栄養失調のビアフラの子のガイコツのような写真が有名になったが、母をお風呂に入れる兄嫁は母の裸を見たくないと私にもらした。

その気持ちは私にもよく解かった。
22才の老ネコを飼っていて、毛はボロボロ、歩きはギクシャク、なく声はギャーとストレスのかたまりのような声を出した。
ときおり若いネコを抱いたときは感動したものだ。

生き物は全て死を恐れる。
生まれたての子は誰もが惹きつけられるように出来ている。
死に近いものには目をそむけるように出来ているのだ。
親だからと理性が気持ちを抑えるが、体に症状が出る。

兄夫婦が旅行に行くからと言われて、母は2・3日で帰れるものと入院した。

そして死ぬまで病院にいた。

                                       つづく
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by oss102 | 2007-05-26 17:13 | 日々のこと | Comments(14)
兄嫁
 長兄のお嫁さんになった人は、私の2級上、兄嫁は早生まれなので、私とは1歳半違うだけ。
高校のとき同じ汽車通学で、私は線路に沿って駆け込み、兄嫁は線路の上側から乗車していた。 出会うと遠くから丁寧に目礼してくれた先輩だった。

兄とは職場結婚。

私はこの年になっても未だに末っ子に生まれたせいで3文安い人間が出来てしまったと分析?しているが、兄嫁も末っ子だ。
この人が良く出来ている。 なにをさせても信頼が厚かった。

私の両親とはずーっと同居していた。
私たち兄弟姉妹はなにかにつけて、夫、子供連れで実家に集まった。
特に夏休みはサマー会と称して、全員集合、総勢20人。
私はいつも1週間も泊まりこんだ。

すぐ目の前に小学校のグランドがあり、10分下れば海があった。
夫は釣りが楽しみで、私の実家に行くのを喜んだ。
兄とは飲み友達。
夫の釣った手のひらカレイのから揚げ、採り立てトマトやナスキュウリ、掘りたてじゃがいもでカレーを作っても、大量につくる味は格別だった。
次兄は「どうしてこんなにうまいんだ」と感激して涙ぐんだ。
この兄は感激やで、すぐ泣く癖があった。

その頃の教師の給料は、薄給の代名詞のようになっていた。
父母の軍人恩給は、戦後無に等しく、生活は楽でなかった。

そこへ手土産一つで私なりに気張った土産のつもりだったが大喰らい一家が5人も行くのだから、兄嫁は頭の痛いことだったろう。

だが不愉快な思いはしたことがなかった。 楽しい思い出ばかり。

                                           つづく
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by oss102 | 2007-05-25 18:01 | 日々のこと | Comments(17)
5月の花
ゲンチアナ・アコーリス・アルペンブルーが咲きました!
4年前にこの手のブルーにはメチャ弱いと購入。翌年から丸3年は花をつけずに肩透かしばかり。それでも葉につやがあり諦めずに水だけやっていました。
去年少し大き目の鉢に移して肥料をやったのがよかったのが、花を咲かせてくれました。
もう一つ、つぼみらしいのがついています。
現金なもので、もっと大きいいい鉢に植え替えてやろうかと、ニンマリしながら眺めています。
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レイウシアは斜めに輪を描くように花をつけます。去年はその内5本ぐらい、折られて持っていかれました。 今年は株も3倍くらいに大きくなって、ご覧のように滅茶苦茶花をつけました。
今度は盗まれないように、夜は家に入れて寝ます。
パジャマに着替えてから、思い出してそのまま取りにいくこともあります。(><);
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何度もアップしている、越冬スーパーベル。6月に入ったら切り戻しをして、挿してまた一鉢ともくろんでいます。儲けものの花なので、毎朝見るたびにムフフフと口がほころぶのです。
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朝写したのでまだつぼんでいるのが多いネモフィラ。 低温続きの後、22日、いきなり23度以上になって、帰宅してみると我がいとしのネモちゃん2鉢、べったりひらぐものようになっていました。慌てて涼しいところに避難して、水をやりました。 強いもんです。翌日は何事もなかったようにかわいい顔で咲いています。
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もらったのを忘れていた稚児ゆり、何度も堀くり返されて折れたのもありますが、かわいい花を咲かせていました。 いいネーミングですね。 チゴユリ。
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by oss102 | 2007-05-24 20:34 | いとしの花たち | Comments(26)
お見舞い 差し入れ
 腎臓透析をしている兄が手術をした。
高熱が下がらず色々検査した結果、S字結腸が破れていたそうだ。
土曜の午後に緊急手術となった。
何とか今は落ち着いているようだが、一日置きの透析を続けながらなので、体力次第と言う。

息子夫婦がいるので、ゴタゴタの最中に私まで飛んでいって、ウロウロすることもあるまいと、電話で様子を聞くだけにしていた。
兄は病院に任せるより仕様がないが、心労の兄嫁を見舞うつもりだ。

そろそろ顔を出そうかと、差し入れおかずを作ることにした。

豆腐にひき肉、こねぎの青いところ、たまねぎ、にんじんなどを混ぜ込み、巾着にして薄味にして煮た。 ストレスで痛んだ胃にもやさしいだろう。
ほかにウドの酢味噌和え、ワラビも兄嫁の口に合わせて甘くした。
3品作って、後は御寿司を買っていくつもりだ。

テニス、パーク疲れに、サポーター会議などもあって、1時からの研修には眠くて困った。
帰宅後一休みしたい体にムチ打って、巾着つくりに励んだ。
夕方の花の手入れもあるし、留守をしていた2匹も外を見たい、もう家に入ると繰り返す。

あぁ、巾着を焦がしてしまった。タイマーをかけるべきだった。
おまけに昨日の朝のウドとは違って、夕方もらったウドは少し育ちすぎて固い。
差し入れ品がまともなのはワラビだけ。

「でも味は悪くないよね」・・・娘に『ウン』と言わせて、あすは焦げ目のうすい巾着を選んで持って行くことにする。

料理べたは変わったことはしない方がいい。
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by oss102 | 2007-05-23 21:01 | 日々のこと | Comments(16)
山菜万歳!!
 北海道の5月は美しい。 そして美味しい!。
隣のラーメン屋さんからウドを貰った。 朝食のパンのおかずにウドの酢味噌あえを食べた。
ミスマッチでなかった。 物凄く美味しかった。

前日テニスコート脇でフキを採ってきた。 すぐ柔らかくなって油断のならない奴。
夕方、友人から採り立てワラビとウドを貰う。

終戦後、豊浦に引き揚げてきて、農家出身の父親に連れられて、よく山を歩いた。
隣町の虻田町(今は洞爺町)に親戚がいて、よく山越えをした。
汽車で一駅の区間だった。
タランポの芽、よもぎ、わらび、たけのこ、アイヌねぎ(ぎょうじゃにんにく)様々な山菜を採った。

料理べたで無精者の私だが、山菜の始末はせっせとする。
同じウドでも、スーパーで売られる養殖物は物足りない。
自然のアクの強いものが好き。ワラビも少々ホロニガが好き。

大麻に住み始めた頃は、住宅もまだ少なく、沿線では笹竹の子がとれた。
夫と笹薮に入っていくと、まだ3才だった次男が泣き喚く。
お昼寝のすきに抜け出して採ったこともあった。
ワラビは庭で縄を燃やして、熱湯につけたワラビの上に乗せ、そのままさます。
今は重曹だ。

長男が大きくなって東京へ行き、里帰りしたとき、タランポの芽やウドの葉先を天ぷらにした。
山ほど揚げて、フト振り返ったら1ヶも残っていなかった。
「ママの天ぷらがない!」と怒った。
夫や子供達の気まずそうな顔がならんでいた。

いまだに忘れない喰いものの恨みである。
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by oss102 | 2007-05-22 20:07 | 日々のこと | Comments(14)