仔猫時代 今でもず~っと仲良し
by oss102
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母の一生の思い出  8
 豊原は樺太でも南部の方で暖かい方であったが、それでも真冬はさすがに厳しく、外を歩くと瞼がペタペタくっついた。水道の凍結は毎度の事であった。
樺太の吹雪はすさまじい。一夜にして雪が軒先まで吹き溜まる。そうなると次男がスコップで遮二無二玄関から道路へ向かってトンネル掘りが始まる。漸くトンネルから抜け出すと、近所の男手の無い家の掘り出しに掛かるのだ。

私達は午前8時頃から一斉に道路の除雪に取り掛かる。除雪車もない当時のこと、こんな事は皆婦人の仕事であった。それでも一時間もすると街の両側に高い高い城壁ができ、立派な道路が通じる。

冬で一番困ったことは社宅の便槽が浅いため、便がすぐ溜まる。それも中央にだけうず高く盛り上がり、それがコチコチに凍る。そのままにして置くとお尻に突き刺さるので時々マサカリで叩き壊すのだが、うっかりすると飛び散った便の破片が口の中に入るので、口を締めてかからなければならない。これには閉口した。閉口と言う字はこれから生まれたのかもしれない。


次男は私と2つ違いの兄、当時は6年生くらいです。こうして男手として頼もしく働いていたのですね。私は家の仕事の戦力だったと自覚することはなんにもした記憶がありません。

戦争はますます苛烈を加え、学生は予科練・特攻隊。女は竹槍訓練に励み女学生は遠く援農に出かけ・・一番華やかな娘時代をモンペに防空頭巾である。樺太はそれでも良い方で内地の学童疎開のことなどに胸を痛める。

とうとう無条件降伏の敗戦をラジオで聞く。その時の家族の様子や、一番悪いことは国民から言論の自由を奪い、政府の独断で事を遂行し、一般国民をつんぼ桟敷に置いたこと。などの政府、軍部への批判の記述がある。

終戦の翌日15才以上の男子以外は内地に引き揚げる様命を受け、私は世話係をしていたので隣組の人たちの引き揚げ先を調べ提出。翌18日に子供たちを連れて引き揚げることになった。
チッキ荷物は3個だけ許可になったので、衣類を行李に3個入るだけ詰め込み、布団の皮でリュックを夫が作ってくれた中へ、下着類、当座着る普段着、鍋食器など詰め、暑い盛りでご飯なら腐るので赤飯を炊き、夜遅くまでかかって準備した。

床に入ってから訳のわからぬ泪が出て困った。主人も長男も何時になったら引き揚げられるか分からぬまま、長男の所へは連絡もできずに旅立たねばならない。長年愛用した箪笥三棹、結婚の思い出の鏡台、あれもこれもそっくり残してこの地を離れなければならない。
でも豊浦には家がある。家のない人のことを思えば行く先のあるだけ幸せとおもわなければならない。うとうととして目が覚めた。

三個の行李を荷車に乗せて夫と引き、めいめいリュックを背負い、駅で荷物を預けたが、その荷物は遂に私共の手に返らなかった。


父は家族を愛し働き者でしたが、一箇所で辛抱しないで転職を繰り返して結果母に苦労をかけました。


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by oss102 | 2012-05-31 17:10 | 思い出
母の一生の思い出  7
 戦域はますます広がり東京の空には敵機が襲来、爆弾をじゃんじゃん落とすようになった。北海道にはまだやって来なかったが防空訓練が盛んに行われた。私たちも防空頭巾、モンペに身を固めバケツリレー消火作業の訓練に走り回った。
物資は統制され、主食は勿論日用品まで配給制になり、自由販売の魚菜類も数が少なく、鰊1本買うにもキャベツ4半分買うにも店先に長蛇の列を組んで待たねばならない。
食べ盛りの子供を抱えての食料確保にはみんなが苦労した。(中略)

夫は北大の教練教師をしていたが、樺太行きを思い立ち単身渡樺、すっかり気に入って早速北大に辞表を出してしまった。帰ってきてすぐに樺太へ行こうという。


母はとてもそんなところには行きたくなかったが強引な夫に逆らえずに従うのです。
つらい気持ちを色々書いています。
樺太へ着くと美しい街で物資も豊富にあって喜んだのも一年ほどで、ついには乾燥バナナとフリカケくらいしかなくなった。
この乾燥バナナは変な匂いがして私は大嫌いでした。ところが好きな人もいてビックリしたものです。

近所の人たちと遠い所へ畑を借りてお芋を作った。生干せの魚粕にはウジがわいている。それを背負って、鍬をかついで4キロ近くも灼けた舗装道路を歩いて漸く畑にたどり着く。
お腹が空くと身欠鰊をかじり、いり豆をかじる。
しかし隣組みの人たちとの耕作は楽しかった。帰りは野草を採ってきて晩のご馳走にした。
樺太の蕗は背丈ほども伸びて美味しい。ヤチ蕗も美味であまり食べ過ぎてゲロゲロしたこともあった。


この背丈ほどの蕗を、母は暑い日盛りに茹でて干していたのを覚えています。非常食のために準備したのでした。結局それは置いてきて食べることはありませんでした。
炎天下遠い遠い道を母に連いて歩き、近所の子供たちとコクワを採って食べました。熟していない固いコクワの実は米びつの米の中に入れて熟すのを待ちました。
母も労働をしながら近所の人たちとの交流が楽しかったのですね。


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by oss102 | 2012-05-30 17:15 | 思い出
母の一生の思い出  6
 新築の家に入ったが母の父親も亡くなり、子供たちも上の学校へ通うようになったので、一家は札幌へ移った。
夫は札商の教官、長女は女学校に通った。

その頃お休みには一家揃って方々に遊びに出かけた。夫は子煩悩だったので、他家の子供たちまでゾロゾロ連れて遠く石狩の海まで出かけたりした。


子供の教育のことはいつも考えてくれて、度々の引越し先も学校から近いところでした。
よその子供も引き連れて父は軍隊の号令よろしく、「あつまれ~・・」などと周りに大勢人のいるところでも構わず大声をあげるので、私は恥ずかしかったものです。

 そうした平和もついに破れる時が来た。・・・と第二次大戦勃発、ラジオからの戦勝の報道、その度の旗行列や提灯行列・・・その頃の国民は真実を知らされていなかった。・・と長い記述があります。

夫にも召集令状が来て、送別の宴は開かれた。軍人の妻として夫の出征に涙なんか見せてはならぬ・・と覚悟はしたが、いざ汽車が動き出し万才万才の人波に夫の顔が見えなくなった時、どっと泪が溢れどうしようもなかった。

出征家族にミシンの仕事をさせているところがあり、毎日Y子(私の事)の手を引いて通った。ここには託児所もあり大勢の子供たちが遊んでいたので、ここで遊ばせようとしたがY子はワァワァー泣きながら後を追うので仕方なく仕事場で遊ばせた。
ミシンの騒音の中で一人おとなしく遊んでいるが、いつの間にか綿埃の床に眠ってしまう。
これは大変と思い、5日目から許可を得て自宅へ持ち帰って縫うことにした。兵隊の袴下(ズボン下)である。
毎夜一時二時までミシンを踏んた。それでも若かったし、お国のためという気持ちがあって、ちっとも辛いとは思わなかった。

そうした或日皇后陛下から出征留守家族に対し慰めのお歌を賜ったので、これにお応えするような歌を道庁から募集されたので、私は早速半紙に毛筆で

 わが背子は君のみ盾よ われもまた 大和おみなそ笑いてたたむ
の一首を出してみた。

するとこの拙い歌が取り上げられ、和綴にして陛下のお手元に献上された。その年の地球節(皇后陛下のお誕生日)に庁立高女の校長先生が皇后陛下の御徳を讃える講話の中で、この歌を読み上げてお話されたと聞き嬉しかった。


私はミシンの仕事場で大泣きしたことはハッキリ覚えています。よその子と快活に遊べない意気地なしでした。゚(゚´Д`゚)゚


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by oss102 | 2012-05-29 17:28 | 思い出
母の一生の思い出から  5
 新家庭は月寒本通の肉屋と下駄屋に挟まれた八疊ひと間に店舗付きの家であった。当時兵隊は満期除隊になると必ず除隊記念として、盃・風呂敷のような物を郷里に持ち帰る。これらの品に名前を入れて売る人のお手伝いをして、その1割を頂いた。
夫の給料は30円であったが、まだ営内居住だったので生活費に困るようなことは無かった。日曜日は外泊が許され、日曜以外にもチョイチョイ外泊許可証をもらって泊まりに来た。その時はすき焼き等をして一本つけた。

家財道具は箪笥ひと棹と鏡台、それに親戚からいただいた古い古い戸棚だけだった。
それでもたった一つの部屋に花を飾り、戸棚をピカピカに磨いて大満足した。

隣の娘たちともすぐ仲良しになり、あまり淋しいとも思わなかったが、ご飯を一人で食べるときが一寸淋しかった。それで板壁一重隣の下駄屋でチャリンチャリンとお茶碗の音がすると、私も急いでお膳を出して食べた。

聯隊がすぐ近くなので一日中ラッパと号令が響いてくる。町も兵隊が隊伍を組んで歩いている。
夫と二人で町を歩いているとき、兵隊の列に行き会うと、その中の班長が「歩調とれーっ 頭ー右っ」の号令と共に一斉に此方を向く。兵隊たちは夫に注目しないで皆私の顔を見る。
私は恥ずかしくて赤くなる。それで兵隊が来ると離れて歩くことにした。


初々しい母の新婚生活が見えるようです。
このあと蚊帳売りに凄まれて隣の肉屋のおばさんに値切ってもらったこと。特務曹長に昇給して陸軍官舎に住むようになり、毎日当番の兵隊が来て庭掃除や靴の手入れをしてくれてなんの心配もない平和な日が続いたとある。そこで子供たち4人が生まれます。

その後父は兵隊を止め豊浦の役場に就職したので豊浦に家を新築し、小花井にいた母の両親と同居。 そこで母の父親が亡くなり、翌年私が生まれます。昭和9年・1034年ことです。


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by oss102 | 2012-05-28 16:50 | 思い出
母の一生の思い出から 4
 さて目出度く女学校を卒業すると早速結婚が待ち構えていた。相手は当時月寒連隊勤務の曹長殿であった。家が同じ小花井で休暇に帰ると私の父母を尋ね親しくなった様だ。
父母も竹を割ったようなさっぱりした曹長殿の気性が気に入ったらしく私の婿にと思ったらしい。
私が世話になっていた母方の親戚へしばしば物を頼まれて持ってきてくれた。在学中の或る日、夏休みで帰宅した私を呼んで父が言った。「隆さんは親孝行者だ。親に孝行な人は妻も大切にするもんだ。どうだ結婚しては」
私も嫌ではなかった。父がそういうのならそうかもしれないと思って承諾した。


あ~ぁ・・ここで母の運命は決まったのです。
女学校へ通っていた親戚の家には従兄弟もいて、大学に進学して弁護士になっています。親戚のなかの出世頭です。
母も男だったら祖父も大学へ行かせたと思います。この時代、女の道はがんじがらめで母はその正道をなんの疑いもなく真っ直ぐに歩いたのです。尤も私だって同じこと、結婚はするものと疑いもしなかったのですから、ここで残念がってもしかたありません。

 婚約期間中彼は尼港事件で有名なニコライスクに出征し、帰って来たときは見事なあごひげをたくわえていた。「いくらアイツでも結婚する時にはあのあごひげを落とすだろう」と同僚に云われたのが癪でとうとうひげのまま結婚した。
田舎の結婚式は物々しい。
第一日は親戚縁者を招き、二日目は部落のおやじさん連中。三日目は青年達を招いて盛大な披露宴が張られた。
母は、昔とった杵づかで日本髪を結うのはお手のもの。三日間毎日高島田を結ってくれた。
おかげでカモジのうるしにかぶれて頭のテッペンが腐った。式の最中頭から流れ落ちた汗が羽二重紋付の肩に落ちる。姉が拭き役。
この紋付の裾模様は父が図案して京都で作らせてもので、菊の花の咲き乱れた見事なものであった。


このとき母は数え年の20才でした。昔はみんな早婚でした。父は30才と10才違いの結婚でした。


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by oss102 | 2012-05-27 13:27 | 思い出 | Comments(4)
母の一生の思い出から  3
 楽しかった2年間の附属生活を終え、あこがれの庁立高女に入学したのは大正8年。当時札幌には主な女学校が庁立・市立・私立の北海位なもので、後小さな裁縫女学校が幾つかあった。
当時の女学校の服装と云えば、着物に袴、白足袋、下駄履きであった。
真夏でも足袋をぬぐ事は許されなかった。そしていつも真っ白でなければならない。汚れたのや穴のあいたのを穿いているとお作法の時間に恥ずかしい思いをしなければならない。

何時か道が悪くて汚れた足袋のままお作法の時間になった。お作法室は広い和室で、ずらり居並んだ中央に2・3人づつ出て実演する。人々の視線が足元に集中する。
私は早く終業の鐘が鳴りますようにと神に祈った。段々出番が近付いて来る。
この次ぎだと観念の目を閉じた時、ガランガランと鐘が鳴ってホッとした。


庁立の海老茶の袴の裾には蛇腹の白線が3本、市立の袴には直線の白線が・・とかいって蛇腹の白線が誇らしかったと。

昭和天皇がまだ東宮殿下と言われた時代、札幌に行啓されることになり、中島の野外音楽堂では軍服姿も凛々しい22・3才の若きプリンスの目の前で、「森の小鳥」と「日出づる国」を合唱した。2つの歌が終わるまで直立不動の姿勢で立っておられ、私達は感激の歌声を張り上げた。
天皇のお顔を見たら目が潰れるといわれた時代でのこと、忘れ得ぬことだったのでしょう。

岩にもたれ~た 物凄い人が・・ディアボロディアボロ・・デアボロ~♫ などと当時流行った歌を戦後、小5年の私に聞かせてくれたりしました。 もうかなり古い人でなくてはこのデアボロを知っている人はいないでしょう。検索すると出てくるのですよ。

もっと色々聞いておけば良かったと今頃になって思うのです。
女学校へは母方の親戚の家から通ったようです。


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by oss102 | 2012-05-26 14:42 | 思い出
母の一生の思い出から  2
 5年生を終えたとき、父は小花井(道南の僻地)小学校の校長になったので、初めて船というものに乗って豊浦へ渡り、馬橇にゆられて小花井へ行った。
ここでは小さい子迄、越前弁を使う。「いけない」というのを「あかん」と云ったり「そうだそうだ」が「ホヤホヤ」だったりしておかしかった。1年生から6年生まで一つの教室に詰め合わせの授業だ。先生は父一人、母は裁縫とお作法の先生。
私は勉強より遊ぶ方に実が入った。
ところが6年を卒業すると急に札幌の高等女学校への受験が決まった。


母の父親は武士から屯田兵となったが、性質も体力も農業には向かず代用教員となったが、あまりにも薄給で、妻の働きで師範学校へ通い教員の免許を取った。そんなこともあり、生活も安定したこの時期に娘を女学校へ進学させたかったのだと思う。因みに親ほど年の離れた母の姉は産婆さんになって若い頃から働いていた。

なんの受験準備もせずに、ノホホンと暮らしていたものが受けたって合格する筈がない。先ず師範付属の高等科を受験して入った。小学校に入学試験のあることを知って驚いた。そして庁立を受ける為には如何に競争が烈しいか、そのためには受験生は遅くまで学校に残って補修授業(その頃は予習と云った)をしなければ成らないか、初めて知ってポット出の私はびっくり仰天した。付属は道内でのモデル校であった為、教育関係者が方々から視察や見学に来た。それに師範の生徒が多勢授業参観に来る。
私は後の席だったので、師範の生徒が髪を引っ張ったり背中を小突いたりするので嫌だったが次第に参観者にも慣れた。
クラスには担任の教師の他に教生(先生の卵)が二人ついた。小学校でも高等科にも成ると、この教生先生にお熱を揚げる人がいた。


幼少時札幌に暮らしたことはあるとはいえ、12才まで田舎暮らしだった少女にとって、聞くもの見るもの刺激的で驚くものばかりだったろう。若い心はどんどん吸収していく。

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by oss102 | 2012-05-25 13:37 | 思い出
母の一生の思出から 1
 私は明治37年1月28日、旭川の永山村にI家の4女として生まれた。7人兄弟の中男3人女1人は赤ん坊の中に死んでしまって、女ばかりの末っ子として育った。

冒頭の書き出しである。私はこれを送られたときちゃんと全部読んだはずなのに、いつの間にか母は一人っ子だと思っていた。
一人っ子だから田舎から女学校などへ進学させてくれたのだと思い込んでいたのだ。

母の両親は屯田兵として北海道に渡ってきて辛酸の限りを尽くして生きてきた。そうか、だからこんなに子を亡くしたのか。そうして母親ほどにも年の離れた姉がいたのだ。年の近いもう一人の姉は15・6才で亡くしているのだった。まったくいい加減に聞いたり読んだりしているものだ。
それだもの、戦争の話を子孫へ語り継ぐなんてのも無意味と感じてしまうのです。

 私が6才のとき父が母恋の小学校に転任になったので、父や祖父母と一緒に母恋ですむことになった、お友達が居なくて、校長先生の子で敏ちゃんという男の子とばかり遊んだ。
ある日、酢を買ってくるように言われて、敏ちゃんと二人で行った帰りに、敏ちゃんが一寸飲んでみて、「おいしいよ 飲んでごらん」と云うので飲んだら美味しかった。二人で替わる替わる飲んで残り少なくなった瓶を持ち帰り、祖母にさんざん叱られた。
その年におばばは亡くなった。私を可愛がってくれたおばば、お歯ぐろを付けた優しいおばばだったのに・・・

晩年、寝たきりになった母を見舞うとこの話をした。2・3度は聞いたと思う。懐かしくて書き写した。

その後2年生のとき麻疹が内攻して死線をさまよい、ようやく回復に向かう。母親は毎日病気の子を背負って、まだ明けきらぬ街を法華寺まで朝詣りしたことを覚えている。痩せていても、2年生にもなれば相当重かったであろうに、毎朝毎朝お詣りに行った母の大きな愛を忘れることは出来ない。

そんな重病の子を背負ってお詣りなんて、体に良くないと思うのですが。一縷の望みをかけたのでしょうか。今なら安静第一です。

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by oss102 | 2012-05-24 17:04 | 思い出
母の喜寿祝い
 すっかり忘れていたのだが、母の喜寿祝いのことを少し思い出した。
父はもう亡くなっていて、母は同居していた兄一家が僻地へ転任することになり、札幌の長姉のところへ一時身を寄せていた。

定山渓のホテルの宴席には一族郎党がもれなく参加した。私たち5人の兄姉はお金を出し合って何か記念品を贈ったと思う。
5人がマイクを囲んでサトーハチローの「母さんの唄」を歌った。

 この句集の12年前に母は一生の思い出を書いて、私たちにコピーしたものを送ってくれました。最後のページにはこんなことが書いてあります。
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振り返ってみると、この母の喜寿の宴あたりから一族に陰りが見え始めていたと思い当たるのです。
この宴で長姉は耳の痛みにじっと耐えていたのを思い出すのです。病院を異常に怖がって病院に行かない姉はその耳の痛みのストレスからか胃がんで亡くなります。64才でした。
義兄は姉の入院時の看病などで心を尽くし、同じく胃癌で姉よりも早く逝きました。
長姉夫婦は樺太からの引き揚げで貧しくなった親弟妹をなにくれとなく面倒を見てくれたのでした。 

子供たちも見ているこのブログに、前回はアッサリ紹介するだけで終わった母の記録をコピーしながら、思い出すままに母のことを書いていこうと思います。お付き合いくださいませ。


長くなると思いますのでコメント欄は最終回まで閉じさせていただきます。m(_ _)m
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by oss102 | 2012-05-23 14:06 | 思い出
母の句集 友人の講評
 ネット仲間に俳句の座長もして沢山の賞も得ているベテランOさんがいる。
その方に昨日の母の句を送って読み方を聞いた。

早速返事をいただいた。あんまり素晴らしい講評なのでここにご披露した。少し母自慢にお付き合いくださいませ。

送句された俳句、楽しく拝見しました。
お母さんは、相当に俳句歴の長い方と思います。ちょっとやそっとでは、ここまでの俳句は、作られません。
表現の仕方や構成に、並々ならぬ力量を感じました。

   ◆---◆---◆

Kさんのお母さんの俳句について。  
   浄雪の韻きに覚むる喜寿の窓     花扇

Kさんから読んで欲しいと依頼された、この俳句が、余りにも達筆に書かれているのに、まず驚きました。そうとうに教養のある方だったのですね。

 小学校4年生で奉公に出なければならなかった私の母とは、雲泥の差です。
さて、作品の事ですが、読み方は、次のようになります。
  「じょうせつのひびきにさむる きじゅのまど」
用語の使い方を見ても、(ただもんじゃないわい)と思いました。

浄雪→清い雪などと、ありふれた表現を避けていますね。
韻き→音とせずに、ひびきと表現。
 これらには、推敲に推敲を重ねた跡が、窺えます。

<鑑賞>
しんしんと降り続く雪の韻きに、ふと目覚めたのでしょうか。
 喜寿のせいか、微少な音にも、いやその雰囲気にさえも、気がつくのでしょ
う。俳人としての、研ぎ澄まされた繊細な感覚が窺えます。
俳人として、ご活躍されていた頃は、高い評価を受けられていたと思います。

<追伸> 春ちかし引かば鈴なる小袖出し 

この通りの意味でしょう。袖をたぐると小鈴が 鳴ったのですね。春も近いよ
うです。

韻をひびきと読むのですね。俳句は難しい。

世界中で、金持ち層から労働者、商店、どの層でもこれだけ親しまれて作られている俳句という文化は他の国には見られないものだそうですね。
ネット仲間にも老人施設で俳句指導のボランテアをしている方がいます。

両親も兄弟姉妹も兄嫁も俳句をつくる家に育ちながら、私は俳句が作れません。天性のおしゃべりなのかどうしても17文字では足りないのです。

この句集がきっかけで色々なこと思い出しています。お付き合いくださいませ。


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by oss102 | 2012-05-22 15:05 | 思い出 | Comments(10)