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翌日引揚げ列車に乗り込むとき、それは貨物列車であったが、子供たちの乗車した後私が乗ろうとすると、「もう満員でこれ以上乗ったら赤ん坊がつぶれるから乗せるな乗せるな」と中の人たちが叫ぶ。子供たちは心配して「母さん早く乗りなさい」「乗せるな」
Y子が「だってきょうだいじゃないの」・・・子供たちに引き上げられてやっと乗ることができた。後でキョウダイは良かったねと大笑い。
私の記憶がいい加減なのはここでも証明されて、以前の私の書いたブログでは、母たちが乗り込んでいて私だけがプラットホームで取り残された・・と書いています。そのように記憶していたのでした。 切羽詰って焦っていたので自分が取り残されたのだと思いこんだようです。
所で貸車なので勿論椅子もなく、めいめい荷物に寄り掛かって立っている様な状態。トンネルに入ると熱い蒸気が入って来て窒息しそうになる。漸く夜に入って長万部に到着。その日は豊浦方面行きはないので駅に寝ることになったが、その駅は魚臭くて気持ちが悪く、ホームで夜明かしをした。
豊原を発つ時、終戦後配給になった砂糖は持ってきたが、塩を持ってこなかったのは不覚であった。塩鮭の焼き身を持ってきたが途中船の悪臭が浸み込んで食べられなくなり捨ててしまったので、何か塩気のものが食べたくて駅の食堂へ行き漬物を少し頂き、他の引揚げ者にも分けて上げて食べた時の美味しさ。こういう時には塩か味噌、水は必ず用意すべきだと思った。
他人に頭を下げて食物を乞うたのは生まれて初めてで、自分がみじめで仕方なかった。
新田次郎の妻、藤原ていの書いた「流れる星は生きている」に依ると 満州からの引き上げの物凄さはこんなものではない。今まで見下していた満洲の民家に物乞いをする。・・のだが母の屈辱もよく分かった。どんな時でも漬物は美味しいがこんなときは全身に塩気が染み込んでいったでしょう。 私はこの漬物の記憶はないのですが、小樽の体育館でもらった塩むすびとカンパンのおいしさが忘れられません。
翌朝5時、今度は普通列車に乗り込む。あぁこれで数時間後には豊浦の土を踏めるという喜びに子供たちの顔も輝いていた。
ところが間違って新しく出来た駅にゾロゾロ降りていって、飛んできた駅長に豊浦は次ぎです。・・・慌てて乗車、みんなの顔はススで真っ黒。プッと吹き出す。顔がおかしいのと安心感で何時までも笑いが止まらなかった・・とある。
必死で母親について行った私たち、必死で連れて行った母親。よく無事に着きました。
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