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母の日が言われだしたのは戦後のことだった。
いつもお腹を空かせていた小学生だったが、中学に入ると少しずつ事情がよくなってきた。
母は毎日白い割烹着を着て立ち働いていた。洗濯機も掃除機も冷蔵庫もなんにもない。その中での主婦がいかに忙しかったか、今思うと大変なものだったと思うが、それはみんなやってるあたり前のこと。
だがなんでもアメリカはお金持ちで素敵な暮らし、と教えられた国からやってきた風習である。すぐに真似をした。
カーネーションなんてないから、庭の水仙を花瓶に山盛りにした。これは田舎の庭のこと、マグサのように一杯咲いていた。
夕食はチラシ寿司をつくった。ピンクのそぼろをいっぱい乗せた。なにかというとこれがご馳走だった。
甘党でない我が家では随分長くそぼろは食べていない。 そのころは甘くて美味しかった。
漁師の町なのに私はそぼろの作り方も知らなかった。第一母も作ったことがないのだ。
カードを作るなんて洒落たことも知らず、「母さん、いつもありがとう」と、ようやくシラミが住みつかなくなった頭を下げた。
母は嬉しそうに笑った。その頃の母は前歯2本が口を閉じても少し見えるくらい出ていた。 その顔が大好きだった。
後年母が50代のころ 、その歯を治した。
トレードマークの前歯が普通に治まって父は「悪人面になった・・」と言ったが、私も少し淋しかった。
水仙が咲く喜びの春は母の笑顔を思い出す季節でもある。
おちょぼ口からこぼれる白い歯が懐かしい。
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