仔猫時代 今でもず~っと仲良し
by oss102
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カテゴリ:思い出( 252 )

褒められる
 子供ころのほめられたことは、些細なことでも忘れないものだ。
大人になってからは、よほど内容がピッタリしてないと嬉しくない。挨拶がわりにほめたりするからね。

1年生に入学したての頃、よく講堂で全生徒が集められて教育勅語を言わされたり、校長の意味の分からない話を聞かされた。私は列の1番前に立って、ピンと指先をのばして姿勢よくして、先生に褒められるのを待ったっけ。 得意のヨイコブリッコ。

やはりその頃、ある店では「ほんとうにサラサラなきれいな髪ね・・」なんてほめられたのまで覚えている。
そのころ戦争しててテンプルちゃんのような髪は、受けがよくなかった。
今では、パーマ代が節約できて羨ましい。

ネネに褒められたことって忘れないよね。なにか覚えてる?と聞くと。
お母さんが編んだ編み込みのセーターは、青だったかグリーンだったか地味な色で、あんまり好きじゃなかったけど。
教室で女の先生が色の話かなにかしていて、教壇に立たされて・・「この色の組み合わせはとてもいい。」と云ってくれた。 その時は嬉しかったと。

そのころ4才くらいだった長男の編み込みセーターの色は、薄いグリーンに(そのころ草色といった)べージュ(そのころ肌色といった^^)のぼんやりした配合で、失敗したと思った記憶がある。 それでハッキリした色の配合にしたのかも。

編みこみ模様が流行り出したころで、苦労して編み機で編んだのだが、それから少しして楽に編み込みが出来る編み機が売り出されて。 もちろん買わなかったけど。

ちょとしたことがいつまでも記憶に残る。 もっともっと褒めて育てるんだったな~~

日曜の朝食での会話でした。 もう12月も3分の1が過ぎようとしてます。


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by oss102 | 2018-12-10 16:00 | 思い出 | Comments(8)
展覧会
 今朝の読売新聞の気流という投稿欄は、展覧会がテーマだった。
星野富弘の絵を見て感動して、となりの夫に「線がきれい!すごいね~・・」と言ったら、「そうですね・・本当に・・」と見知らぬ人の声が返ってきた。

遠くまで1泊して出かけた展覧会に、お目当ての絵が展示されていない・・倉庫の中だった。

彼女に恰好つけたくてゴッホの展覧会に・・とか6編の投稿が載っていた。

 私がハタチ前だったと思う。有名な画家の展覧会に行ったら、大行列・・こんなにも混むものか・・とジリジリ進む行列の中にいた。姉も一緒だったと思うが・・少し離れていた。
すぐ前の主婦らしい人のハンドバックの口金が大きく開いていた。 どうしよう・・教えてあげたいけど・・もうスリにやられた後だろうか?・・そわそわと絵をみるのもいい加減だった。

私の動作が気になったのだろう、その女性は咎めるような視線で振り返った。
「あの~・・ハンドバックが・・」とバックに視線を向けた。「アラッ・ありがとうございます。」とパチンと閉めた。
大安心した私。 姉がどうしたの?という視線を向けた。

このシーンだけはいつまでも覚えている。気弱な私・・人間ってこんなにも変化します。(^^♪

誰の展覧会だったのか、覚えていません。


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by oss102 | 2018-11-25 16:00 | 思い出 | Comments(8)
母に好意をもった男性
 母が80代のころだったと思う。微熱が下がらずに兄夫婦のいた地方の病院に入院していた。
車で1時間半くらいの場所で、よく見舞いに行った。 帰りには落葉キノコなどを採って帰った。

その頃、母はまだ普通に歩けていて、ロビーや面談室で私の生活などを楽しそうに聞いてくれた。
帰るときは、いつまでも手を振って見送ってくれた。

微熱の原因がわからずに、入退院を繰り返していたが・・母に好意を寄せる同じ病棟の男性がいて、ロビーで話しかけたり、病室に新聞などを届けるという。

兄嫁がものすごく気にしていて、けがらわしそうに私に話した。母にもハッキリと断ってと言ったようだ。

大岡越前の守が、母親に「女の性の気持ちはいくつまで?」と聞いたら、母親は、黙って火鉢の灰をかき寄せたという・・死んで灰になるまで・・という逸話がある。

そのころ、よく施設での男女の交際や・結婚がマスコミの話題をにぎわせていたが。

私も80半ばになった。 ここに時々コメントいただくアメリカ在住の女性のブログに、集まりでは男性が入ると盛り上がる・・とあった。

私はそのsakuraさんのブログのコメント欄に・・男はイラン・・と書いたが、やはり組織には男性がいたほうがいいな・・と思っている。


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by oss102 | 2018-11-20 16:00 | 思い出 | Comments(6)
高校野球を見て
  甲子園の高校野球の決勝戦も終わりました。今年は小樽の北照高校も出たのですが1回戦で終わりました。 それでも代表になったということで、杜のひろばにも、募金箱が置かれましたよ。
ささやかに入れた私ですが、勝ち進んでいたらまた関係者は大変なご苦労でしたでしょうね。

もうTVの野球観戦から離れて久しい私ですが、準決勝と決勝戦の1部は見てました。
農業高校ということで、いつになく・・いやいつもなのかな?・・盛り上がっていましたね。

私は飼育している豚に子豚が生まれて可愛い・・などという場面をみて、そうかそうか、頑張ってね、という気持ちが強くなりました。 食べられちゃうのにね。

 私が、野球観戦に夢中になったのは、小5のとき引き揚げてきた家は、小学校のグランドが目の前。 兄や、姉の同級生たちが、若虎会というチームを作って練習試合をよくしていたときからです。

炭などの経済のために、外にかまどをつくり、そこでご飯を(トーキビを砕いたのや大豆入り)を炊いていました。 小枝をくべて、その合間に野球を見て・兄はほとんどフライに打ち取られていました。 活躍していたのは、不良というレッテルを貼られていた姉の同級生でした。

そんな暮らしでルールに詳しくなって、結婚してTVがはいると、貧しい暮らしながらスポーツ新聞まで別にとっていましたよ。

北海道はフランチャイズのチームがなかったので、やはり圧倒的に巨人ファンでした。もちろん私も。
50代ころまで熱心でしたから、そのころの選手が、バラエテイのゲストで出てくるとすぐに分かります。

最近は落合選手がよく出てきて面白いコメントをしてますね。 急に売れっ子になったようです。

それに引き換え清原は、「告白」の本など出していますが、立ち上がれるのでしょうか?
甲子園最多ホームラン13本の彼は、金足高の決勝戦を見てたそうです。

金足高の彼らも、どんな人生を歩むのでしょうか。しっかり地に足着けて日本農業を支えてほしいのですが。 


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by oss102 | 2018-08-22 16:00 | 思い出 | Comments(4)
3度の大型船 
 快晴27度の予報。しかしながら海からの風は意外に冷たく、これは秋風・・ストックを持ちながら、お盆前にこれは早やすぎだろうと家を出た。 また本州に台風がくるらしい。

公園の見晴らし台で休憩していると、小さい子連れの母親とその友人に会った。新潟からのフェリーで来たという。両親に会いにきたのかな? それとも涼み旅行かな?

私は2度フェリーに乗ったことがある。船酔いを心配する私に、仲間は、大きな船だから酔わないよ・・と太鼓判を押してくれた。その2度とも、2日前に大風が吹いた。見事に酔った。
1度目は、6月にスキー仲間と月山へ行った。全国のスキー仲間の研修会だった。
船には酔ったし、ようやく着いたらガスでなんにも見えなかった。

翌日は晴れてベタ雪・暑くて汗ビッショリ。

2度目は新潟に猫と花とワインというペンションに猫仲間とネネと・・二人でフェリーのお風呂に入っていると、揺れて揺れて酔ってしまい、とうとう楽しみな夕食は食べられなかった。

そのオーナーはいま小樽近郊に、同じような暮らしをしている。
近くだと安心してなかなか行かない。

大型船の船酔いの最初は、小5年のときの樺太からの引き揚げ船。
貨物船の船底に、ビッシリ詰められて体を伸ばす場所もなかった。

船はボートくらいがよろしいようで・・・


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by oss102 | 2018-08-07 16:00 | 思い出 | Comments(6)
浴衣の思い出
 花火の思い出を書いたら、浴衣のことも思い出した。 それに連なる彼とのデート・・なんて先走りしないでね。

11才のとき引き揚げてきてから、仲良くしていたAちゃんは、昔で言う貰いっ子だった。芸者あがりの母親で、Aちゃんと、これも貰いっ子の血のつながらない弟がいた。
当時電気工事は引っ張りだこだったのか、「電工のTです!」と当時はまだ庶民の家にはなかった電話に声高に応じていた。 気の強そうな目の吊り上がった怖いオバサンだった。

Aちゃんは、踊りを習うと言った。私も踊りなんていう世界に憧れて母親にせがんだが、どうしても許してくれなかった。 それはそうだろう。なにもかも放り出しての引き揚げ者。 父は間もなく帰還してきたが無職だった。

2年目、6年生になると少し食糧事情もよくなってきた。 行商が家に来て反物を広げた。年頃の姉たちに母は少し買い上げた。 そばに貼りついている私に、商人は浴衣を見せた。
白地に紺の笹か竹かの模様の浴衣地だった。

ものすごく欲しかったが、母は買ってくれなかった。今でもその模様が目に浮かぶ。

新婚の夏の夜は浴衣も来て夫と一緒に歩いたが、その浴衣の模様は覚えていない。 

着られなかった浴衣のことは忘れないもんですね。


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by oss102 | 2018-07-29 16:00 | 思い出 | Comments(8)
まつり雑感
 昨日、6月15日はサッポロ祭り・・今は北海道神宮祭り。久々に青空がひろがって、さぞや祭りの売店も賑わった事だろう。でもまだ風は冷たかったな。

元気のよい道産子は、1度腕を出すともう重ねたくない。結構半袖Tシャツのオジサン・若者・子供たちが町を歩いている。 家庭ではストーブを点けてね。

今も夏の制服にいっせいに替えるのだろうか。今も子供たちは、振袖にキンキラのつくりオタイコをつけて、塗りのガッパなど履くのだろうか。 いや、お稚児さんにでもならないかぎり、もう振袖は着ないよね。
今は7分丈のきれいな着物の裾はヒラヒラのフリルがついたドレスだものね。

孫もひ孫もいないから、たまにそんな子を見てビックリする。合理的!

口紅をちょっとだけつけてもらって、落ちないようにオチョボ口にとんがらせて姉たちに笑われた幼い日。色褪せない遠い昔。幼いころの思い出はいくつになっても忘れない。

小樽も祭りが多い町だけど、もう花飾りをつける家はなくなった。第一(ひさし)がない。四角いスノーダクトの家ばかりが増えた。 祭りの気分も薄くなったが、ヒサシの雨宿りのロマンスも生まれなくなった。


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by oss102 | 2018-06-16 16:00 | 思い出 | Comments(5)
運動会

 麻雀のいつもの仲間の60代の男。孫の運動会なので次週は休むと云っていた。だが、調子よく大勝して・・早く帰ってきてくるかな?・・なんていう。「3年男子なら早く終わるかもね」というと、それがリレー選手なのだという。「それじゃあ見てやらないと・・」「俺はさっぱりだったのに、誰に似たのかな・・」 巨漢のジジは言う。

私も少々足は速かった。戦後は近隣の学校の運動会にも選手代表で出かけた。粗悪なノートをもらってうれしかった。

管内の陸上選手にも選ばれて走ったが、管内ともなると入賞とは遠かった。あのころ女子では100m15秒台で選手だったのだが、そこでは14秒台の選手がいた。

今は靴もコースも体形も違ってきたから、もっとよい記録が出てるのだろうな。

この時期はリラ冷え。寒い運動会がよくあった。
末の子の出産まもなくの運動会には、田舎から両親に来てもらった。冷たい風が吹くなかを出かけて冷え切って帰宅。 ストーブを焚いた。父62才・母52才・・若かったねぇ。

いま、札幌では午前中で終わる運動会なんですって。そのほうが、下級生も上級生の運動も見られるし・・と良い面を取り上げていたが、やはり母親も働く時代、お弁当を豪華に開いて、一緒に食べられない子への配慮なのかと思う。

今は動画を撮るのに忙しい親たちなんでしょうね。席取り合戦はなくなったのかなぁ。


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by oss102 | 2018-05-26 16:00 | 思い出 | Comments(6)
大喰らい家族
 今話題のアメフトの宮川がたびたびTVに映る。ネネと食事しながら、アメフトの選手がそろって食べ放題の店になんか行くと、店つぶれちゃうよね。 相撲の連中なんかもね・・・

ということから昔の思い出話になった。父が倒れて入院、母が付き添い、兄嫁もいろいろ忙しくなった。 夏休み、見舞いがてらに実家みんなの食事当番するよ・・と里帰りした。

田舎なので、料理の素材も調味料もなく苦戦した。それでも母に代わり父のオムツの交換もし、お風呂の掃除・トイレ掃除などなど、少しでも役に立ちたいと頑張った。

兄は最後の日、自分の2人の小学生兄弟と私の小学生2人と3才の子たちを、そのころ出来てきたバーベキューの店に連れて行ってくれた。 兄の子・特に長男は、小さい時から食が細く、ジジババ、両親から一口食べるごとに「おお!エライエライ!」と称賛を浴び、食事の時間が苦痛という子だった。

生まれて初めて焼肉の店に連れていかれて、わが子たちは、あまりの美味しさに感動した。いくらでも食べられる。 兄は最初は「気持ちよくたべるなぁ~、もっと食べろ・・」と言ってたそうな。

その話を聞くたびに、「オジサン可哀そう!!」と私が叫ぶ。 我が家は標準からみてもかなりの大喰い家族なのだ。 子供と言うのはそんなに食べるものではない・・と兄は思っていたと思う。

美味しい思い出話を遺してくれた父は、入院してから105日目で亡くなった。
兄もいない。


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by oss102 | 2018-05-24 16:33 | 思い出 | Comments(4)
突然死
  ネコ好きな大杉漣さんが亡くなった。 急に心臓が動かなくなってしまうのを急性心不全と一般にはいうのですね。 身近に急に死んでしまったのはフウロ13才。 ネコ好きな方だからネコと一緒にしても怒らないと思う。

この時も驚いたが、私が50代の頃、大変お世話になった男性も突然死だった。
そのころは、しょっちゅうスキー仲間のテニスクラブで札幌で遊んでいた。大会もペンション泊まりの2・3泊も度々あった。

その2泊目の秋のニセコの朝だったと思う。H氏が亡くなっていると周囲が騒ぎ出した。
昨日までテニス三昧、夜は飲み放題の宴会だった。

H氏は、まれにみる優しい男性で、よく初心者の指導をかってでていた。
仲間の大会では、必ず初心者と組む。 テニスもスキーも上級者でフォームもきれい。みんな少しでも上手な人と組んで勝ちたかったのに、いつもそうだった。

私がメンバーを集めていた小樽まで来てくれた。
どうしてあんなやさしい人間ができるのだろう・・とやさしくない私は、いつも感心して甘えていた。 とてもショックだった。 世話役の男性が「やっぱり心臓なら、その瞬間は苦しかったろうな・・」といった言葉が耳に残った。

1年後の秋、H氏を偲ぶ仲間の大会に、和服を着た奥さんがお礼を述べた。

大杉漣は、ネコのドラマしか見ていない。私はドラマを殆どみないので・・でも実力のある役者さんだったようで・・・ご冥福を祈ります。


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by oss102 | 2018-02-23 16:00 | 思い出 | Comments(10)