仔猫時代 今でもず~っと仲良し
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家の手伝い
 いつも空想ばかりして、働くのが嫌いな少女だった。
だが末っ子で比較的労働の少なかったと思われる私でも、色々手伝いをさせられた。

親の割った薪運び、家の周囲にぐるりと積み重ねる。まだ充分に乾燥していないので、結構重い。 玄関と廊下の雑巾がけ、苺畑のランナー取りと草取り、南瓜の花粉付け。
部屋の隅っこで本を読んでいたい少女に、まとまった時間はなかった。

それと海辺の商店街までのお使い。かなりの急坂である。冬、すり減った靴での上り下りは大変だった。

大晦日などは、親たちが酢だのローソクだのと思いついては一々使いをさせられる。まとめてくれれば一回で済むのにと恨めしく思ったものだ。

山の方の集落にいる親戚への使いも頼まれた。山道を1時間以上かけて登って行く。
細い道に牛が寝そべっていて通れない。牛はジーッとこっちを見ている。
藪をかき分けかき分け遠回りして、やっと通る。

その山道の一人ぼっちの時間は私の空想の時間。

魔法がとけて、私は光り輝く本来のお姫様になったり、ワンパクたちを1撃のもとに倒す強い家来がついたりした。

今ならどんな変質者がと、親はこんなところを歩かせられない。
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# by oss102 | 2006-08-10 15:38 | 日々のこと | Comments(10)
私のイタセクスアリス
 世の中が少しずつ落ち着いてきたのか、納豆が食卓に出てきた。
1包みの納豆を兄を除く6人が朝食で食べるのだ。

雑穀の沢山入ったご飯に、いく粒かの貴重な納豆のおいしかったこと。
漁業組合に勤め出した姉のおかげで、ボーテンも口に入るようになった。

食糧事情も少しずつ回復してきたが、出版界も復活してきた。
それまでの私の読書といえば、トイレの落とし紙に使っていた、古い雑誌をバラバラにしたもの。 汲み取り便所の中が私の読書室だった。

トイレの中で、ルビ付きの途中でチョン切れる小説を読んでいた私は、いつのころだったか、母に中原淳一の表紙絵の「ひまわり」を買ってもらった感動は忘れられない。

パンツさえ親にねだることを知らなかった私である。買ってもらえるということが分ってからは、度々おねだりしていた。 調子に乗るタイプらしい。

それ1冊を元手にクラスの子の本を借りまくっていた。
先日書いた、吉屋信子、円地文子等の少女小説である。

兄が樺太から帰って来てからは、エロ本が我が家に出現した。私はそれを盗み読みした。

結婚したら赤ちゃんが生まれる。当然のことと思っていたが男女の間には、それだけじゃない何かがあると気付いたのも、その頃だった。

☆ 先日兄は数年遅れて帰ってきたと書いたが、小5~数年ではもう中3位にはなっている。
   中3でこんなことに気付くのは幾ら昔でも遅すぎだ。
   随分遅れて帰ってきたと思っていたが、案外翌年あたりに帰ってきたのかも知れない。
   資料も調べず、記憶だけで書いているのでアヤフヤが一杯だ。ゴメンナサイ
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# by oss102 | 2006-08-09 15:36 | 日々のこと | Comments(12)
貴方のお孫さんは「つぎ」という言葉を知っていますか。
 みみずの入ったツーンと鼻に付くにおいの澱粉カスは、山の方にある澱粉工場から父がもらってきた。 みみずをより分けての澱粉カスのダンゴ汁。
どんなに空腹を抱えていても、これは我慢が出来なかった。汁くらいは飲んだろうか。

だが少しずつ土地にも馴染んでいって友人も出来た。
冬、炭運び用の大きなソリに7・8人も乗り「サレヨ~~~!!」と山道を滑った。
豊浦は港まちである。 急坂がいたるところにあった。

薪ストーブの上や傍には、いつもぬれた手袋や靴下、つぎの当たった長靴も干してあった。
(長靴につぎが当てられるのかいと思う貴方、チャンとゴム長修理用のゴムが靴屋さんに売っていて、接着剤でつぎをするのです。)

つぎという言葉も死語になりましたね。

e0001808_21214535.jpg お風呂は大きなジュラルミン製、中に円形に作ったフタ兼底板が浮いている。五右衛門風呂である。
現在でも作られているのですね。製造所の写真をお借りしました。

なるべく足をのばして、中心の板を押さえなければならない。板がタテにならないようにソロソロと乗る。お風呂は1週間に1度くらいしか沸かされない。

母は味噌も醤油もドブロクも手作りしていた。

私たちは古い毛糸を結び足しながら、靴下、手袋を編んだ。初めは踵のないボッコ靴下。
段々踵の作り方も覚えた。
こしのなくなったふるい毛糸を2本どり、3本どりして編んだ。
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# by oss102 | 2006-08-08 21:35 | 日々のこと | Comments(10)
替えのパンツがない。
 町内会から引揚者への見舞い品をもらった。
なにがあったかもう忘れたが、鍋、衣類など当時としては貴重なものもあったと思う。

私はパンツの洗い替えがなくて困った。パンツとは今のようにズボンのことをいうのではない。
下穿きのことである。町内会もパンツまでは考えなかったと思う。

汚れたパンツをはきながら、親へは買ってということも、困っていると訴えることも考えなかった。親は精一杯生きているという事が、身にしみてわかっていたからだと思う。

困ったことだけを覚えているが、一日ノーパンで洗ったのか、どうしたのか今は記憶にない。

町内会でお寺かなにかに子供達が集まったとき、おすわりしていたどこの子よりも、足の裏が真っ黒で、恥ずかしい思いをしたことがある。スカートで一生懸命かくしていいた。

これは貧しいとかどうとかのレベルではなく、単に私が無頓着だっただけだ。
当時はどこの家の玄関にも雑巾が置かれていた。雑巾で足を拭いてから上がる。
私は2・3度足踏みしただけで上がるのだ。 ネコよりましな程度だった。

離れの周りにはグスベリの垣根があった。少し色付いたグスベリは美味しかった。
だが大きなのを選んでいると、ヘビとかち合わすことがあって、恐る恐るのぞきながら採っていた。
朝露にぬれたキャンベルも美味しかった。 桑の実は友人達と口を真っ黒にして食べた。

秋になって大きな丹波栗が落ちる頃は、近所の悪がきが拾いにきて、父が窓から軍隊仕込みの大声で「コラ~~~~ッ!畑に入るな~~~!」と毎度叫んでいた。
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# by oss102 | 2006-08-07 19:04 | 日々のこと | Comments(13)
貧乏な父
 父は十日ほどすると突然帰ってきた。 皆大喜びした。
兄は地方の三菱炭鉱の事務方をしていた。 若かった兄はロシア語を修得して、通訳として重宝され、数年戻れなかった。

兄からの手紙が届いて、母が蔭で泣いていたのを思い出す。

父は帰ったものの仕事も無く、3反ほどあった家の畑仕事に精を出していた。
農家出身で入り婿の父は、子煩悩で働き者であったが、金儲けの才覚はなく、ただ良く働く律儀者であった。

暑い日の仕事の合間、汗を流して家に来た父は私に「なにか食うものはないか」と言った。
なにもないというと、縁側に腰掛けて煮干を食べ出した。

私は内心、アァ 貧乏は嫌いだ、急にお金持ちの父親が現れて、本当は私の子だが事情があって預けていた。迎えに来たよと私を連れて行ってくれないかと罰あたりなことを考えた。

当時読みふけっていた吉屋信子の少女小説の影響である。

父さん ゴメンネ。
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# by oss102 | 2006-08-06 16:22 | 日々のこと | Comments(12)
転校生は相合傘に
 いたずら男子がいつ三角巾のキャップを取りに来て、坊主頭がムキダシにならないかとおびえながら過ごしていたが、そうしたことはなかった。

今思い返してみても、オデキのことでは、自分では充分に傷つきながら、人にされて嫌だったという記憶はない。 有難いことだったと思う。

豊浦小学校に転校して間もなく、国語の時間、数人が指名されて教壇に立たされ、それぞれ漢字を黒板に書かされたことがある。

私のもっとも得意分野の漢字である。何の不安もなく教壇に立ったが、先生は私に長万部(オシャマンベ)と書けという。豊浦への乗り換え拠点の駅の名であった。私には馴染みのない駅。
ボーゼンとして立ちつくした屈辱感は今も忘れない。

今は駅名も変わってきているが、豊浦近辺にはアイヌ語が地名になっていて当て字の駅名が多かった。

豊浦は昔べんべ(1935年改称)隣の洞爺はあぶた(虻田)、うす(有珠)、おさる(長流)など、修学旅行生が笑って通り過ぎていた。

転校生は何かとからかいの対象にされた。
クラスに姓と名が一字ずつ私と同じ男の子がいた。それだけのことに私の名と混ぜて呼んでからかわれた。
たとえはと山本英夫と岩本英子なら、山本英子!!と叫ぶのだった。

隣のクラスの男子まで、窓から首を出して叫んでいくのだ。黒板には相合傘の絵も描かれた。

当時はとても嫌だったが、今は懐かしい思い出。 彼も、もう亡き人だ。
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# by oss102 | 2006-08-05 20:28 | 日々のこと | Comments(7)
ガンベタカリの少女
 トマトは沢山食べたが、主食はじゃがいも、南瓜、トーキビばかり。澱粉カスも食べた。
漁村だから魚は食べられそうなものだが、全国的に食糧難の時代だったから、高価だったのだろう。

たまのいか鍋はご馳走であった。暑い盛りに蒔きストーブを囲み、輪切りにした獲れたてのいかとハラを、ゴボー、白菜などと鍋にして食べる。 美味しかった。
いか漁の時期は農繁期のときのように、学校は休みになった。

汁ばっかりの雑炊、炊とん、トーキビを乾燥させて砕いて、澱粉をつなぎにしてのダンゴ汁の登場も多かった。 いずれも熱くて汗が吹き出た。

e0001808_20355998.jpg 学校で1・2・の3でギュッと握っていた手を開く。誰の手が一番黄色いか競うのだ。
南瓜ばかり食べているので、皆な手が黄色くなっている。 

そんな暮らしの中で、頭に膝に吹き出物が噴出した。汁、膿と流れて悲惨な頭になり、とうとう医者に丸坊主にされた。

ベタベタ白い塗り薬をつけられ、大きな三角巾で頭を覆われた。 ガンベタカリである。
暫くしてようやくオデキの方は治っても坊主頭である。恥ずかしくて三角巾をかぶり続ける。
そのうち又オデキが噴出する。といった具合だった。

きょうだいはなんでもないのに、私だけだったのは成長期で、まだ体が出来ていなかったためだろう。 栄養障害である。

何処に出るにも上を見られない。人の視線を避けて、うつむいて顔を伏せて歩いた。

 暗い少女期
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# by oss102 | 2006-08-04 20:52 | 日々のこと | Comments(12)
きょうだいなのに・・・・・
 稚内から汽車に乗って、道南の漁村、豊浦へ帰ることになった。
また満員の貨物列車である。途中の乗り換え駅で、ワーッと走って次の貨物列車に乗り込むとき、母や姉は先に乗り込んでいて、私だけがプラットホームに取り残された。

「もうこれからは次の列車」と小父さんたちの太い手に押しとどめられた。

私は必死で「きょうだいなのに、きょうだいなのに」と叫んでいた。言っていて何か変だとは思ったが、夢中でほかの言葉が思いつかなかった。母たちも頼んで、やっと私も乗せてもらえた。

この「きょうだいなのに」はその後いつまでも、母や姉にひやかされて気恥ずかしい気持ちがしていた。 「おか~さ~ん」とでも叫べばよかったのかもしれない。

ようやく家にたどりついた。 暑い夏、山の手の海の見える庭には、私たちが「コケコッコばな」とよんでいたタチ葵が沢山咲いていた。鼻の頭に、あごの先に、腕にとはなびらの根元をはがして、ねばりのある花弁をつけて遊んだものだった。

e0001808_17205433.jpg
そこは父が建てた家で、父方の伯母一家が住んでいた。
伯母たちは離れに移り、私たちは母屋へ入った。

4斗かめがデンと置いてある横にポンプがあり、朝晩その水がめを一杯にするのが私の仕事となった。

その水がめには夏は畑からのトマト、お盆にはスイカなど、いつもポカポカ浮いていた。

いっぱいにするのに150回だったかなぁ、数をかぞえながらポンプを上げ下げしていた。




e0001808_17284294.jpg 
トマトは今でも私の大好物、いまのように真っ赤になってから食べないで、半分くらい赤くなると食べごろと思っていました。
枝からもいで食べるので、外側は青くても中は赤く色付いています。
一日で平気で8ヶくらい食べていました。
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# by oss102 | 2006-08-03 17:46 | 日々のこと | Comments(16)
砂糖入りのおにぎりの味
 お釜の上一面の大豆ご飯。
底の方は少し白いご飯が多い。母の手助けをする長女は、私たちのお弁当も作ってくれたが、自分用には、底のほうのご飯を詰めた。「オネェチャンはずるい」と恨めしく思ったことを、未だに覚えているのだから、まこと食い物のうらみは深い。

終戦の放送があったとき、皆ラジオの前で泣いたり、終わったと言っていたが、私とすぐ上の兄は何を言っているのか分からず、こっそり笑い合っていた。

終戦直後、軍人でもあった父は、どこをどう手配したのかすぐに引き揚げとなった。
18才以上の男は残り、老人と婦女子が本州への引き揚げが可能であった。

父と兄は残り、母と姉妹4人は大泊から引き揚げ船に乗った。貨物船の船底にすし詰めされた私たちは全員船酔いに苦しんだ。

私たちの乗った貨物船の前後の引き揚げ船は、ロシアの襲撃を受けて沈没したことを、後になって知った。

母は引き揚げのとき、当時超貴重品であった砂糖入りのオニギリを作った。だがそれは全然美味しくなかった。
稚内港に着いて、配給された塩味のオニギリこそが、最高の美味であった。カンパンも美味しかった。

私たちは稚内の小学校の体育館に泊まった。 難民そのものであった。
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# by oss102 | 2006-08-02 20:06 | 日々のこと | Comments(16)
8月です、終戦の年の思い出など・・・
 昭和20年8月、私は樺太の豊原市の小学校5年生でした。
小2で札幌から父親の仕事の都合で豊原へ越してきました。その当時札幌はかなり食糧事情も逼迫していたのか、母は「ここは果物もお魚も行列しなくても買える」と感激していたのを覚えています。

でもそれは束の間のことのようでした。母は近所の人たちと遠くへ畑を借り、作物を作りに行くようになりました。 どのくらいの距離だったのか、子供心に遠い遠い道を歩いていったのでした。

そこでコクワという実の味を覚えました。お米を入れるおひつに固い実を入れて、熟成させて甘い実を食べました。
熊の好物だから、コクワのあるところには熊が出ると驚かされました。

e0001808_2134355.jpg

豊原はナナカマドと白樺の多い美しい街でした。

台風とか、吹雪になる前の日には、木が真っ黒になるくらいカラスが止まって、ガァガァ鳴き騒ぐのでした。 そのうるさい予告は必ず当たるのでした。

e0001808_2174322.jpg 








父は当時建設会社の現場監督のような仕事をしていたらしく、ほとんど不在でした。

母は、大きなフキを採ってきて、暑い盛りに大きな鍋で茹で、皮をむき、外に干して保存食を作っていました。

ご飯には沢山の大豆が入り、炊き上がったお釜の上部は一面大豆の黄色で占められていました。   

                                           つづく
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# by oss102 | 2006-08-01 21:24 | 日々のこと | Comments(12)